ベイルートという言葉の響きにどうしても釣られるのです
ベイルートという名前に引かれて手に入れた関口涼子著『ベイルート961時間(とそれに伴う321の料理)』(講談社2022)というタイトルの本。これがなんとも不思議な趣でありました。外見の体裁はいかにも料理本と思わせておいて、しかも本文の中で著者が「この本を料理本のように開いてほしいと望むほかない」、「この本は自分が思っていた以上に、あらゆる意味での「料理本」になるだろうと理解したのだ」と書かれているのだけれど、しかし、これだけ作者が「料理本」ということを意識し強調するってことは、つまりはけっして料理本ではない。
今あらためて前書きを読むと、こんな一文もある。「そしてこの本に書かれた幾つかの「レシピ」が、役に立つものであるように祈っている」。そうか、私はこれから彼女の書いてくれたレシピに沿って、このブログの文章を書くことになります。
私が高校3年生だった、1982(昭和57)年、秋。すでに野球部の活動からは引退して、それまでの高校生活がつるべ落としのように暮れていってしまうようなときのこと。まわりは大学受験一色になる中で、私はとても中途半端な気分でいました。受験の準備をするにしたって、これまでの遅れを今さら取り戻せはしない。
中学生のころにアフリカの飢餓の写真を見たことで掴んだ「農業を学んで、稲の育て方を伝えに行こう」という初志は、根っこはしっかり育て続けていたけれど、でもどうやら飢餓は農業の問題ではないことには気がついていました。
さらには、この秋、私は失恋もしています。薄々感づいていたことでしたけれど、野球と好きな女の子に振られちまった悲しみを抱えつつ、おそらく呆然と過ごしていたのです。朝起きて10キロを超える道を自転車を漕いで学校には行くものの、授業にも出ずに友人の居場所だった新聞部部室で何をするでなく過ごしたり、吉祥寺の街をぶらぶらしたり。
俺は何がしたいのかなぁ………
と考えていたのです。と書くほど何を考えていたかはあまり記憶に残っていないのですけれど、将来が見えずに悶々鬱々としていたのは確かです。
一度両親に「大学受験を1年先延ばしして、俺は海外を見てきたい」というようなことを伝えたのはよく覚えています。「大学で何を学ぶのか、自分の目で見て考えたい」というようなことを、夕食時に父母に向かってぶつぶつ言ったのでした。
海外、その対象としてイメージしたのが、中東の小国レバノンの首都ベイルートだったのです。
当時、レバノンでは宗教グループの対立で1975年に始まった内戦が、隣国のシリア、イスラエル、国ではありませんがパレスチナ、らを巻き込んで激化していました。特にベイルートでの激しい戦闘の跡である瓦礫化した都市の姿は、日本の新聞の紙面にもときどき載っていたのです。ニュース報道でも、破壊された街と、そこで暮らし続ける人びとの様子が“泥沼”という言葉と共に映し出されていました。
“農業”とはまったく違うけれど、自分は将来、ああいう場所に行って何かがしたい、そんなふうな気持ちがあったのです。あそこが自分の目指す“途上国”だと。「見ておかなくては」と思ったのです。
紛争地ベイルートを「見に行きたい」? 不遜の限りです。お呼びでない!とはこのことでした。そして結局、風船のような中身のない現状逃避だけの思いつきは、あっという間に萎んだのです。ただ、ベイルートという場所への憧憬だけは心の中に残りました。今も残っています。
その後、レバノンの内戦は1990(平成2)年まで続きました。紆余曲折を経てやがて“理科教育”という分野を入り口にして途上国にかかわった私が、レバノンとかかわる機会はこれまで一度もありません。ベイルート、今でも行きたい場所です。
昨年、ベイルートで大きな爆発事故が起きたときも、知らない街のニュースとは思えませんでした。たまたま知人がベイルートで働いていて、彼の住んでいた部屋も被害を受けたのです。その様子をSNSを通して実況中継のように知り、爆発前のベイルートをもう永遠に見ることはないのだと思うと、悲しかった。
そのベイルートを舞台にした関口涼子さんの本は、主に2018年のベイルートを“食”をキーワードにして表現する、というものでした。そして、それはとっても刺激的な内容だったのです。彼女がベイルートに滞在し、さまざまな人と食べ物を話をする。料理好きであるの著者はベイルート滞在中は自分では一度も料理はせず、レストランや屋台、テイクアウトだけでベイルートの今を味わい続けるのです。
その上で記された散文は、ヨーロッパとアジアとの文化論(筆者はフランス在住です)、戦争、歴史、移民・難民、個人史、階級、カタストロフ、市民革命、貧困、格差……、それらが様々なハーブやスパイスの匂いをともなって縦横無尽に行き交うものでした。
さらに私にとって興味深いのは、この本はまず最初にフランス語で書かれ出版されたものがあり、それを筆者自身の手で日本語訳したものだとということです。翻訳。これは、私にとって最近大きなテーマなのです。どうやって異なる言語を結びつけるのか。日本語と英語とカンボジア語を、どうすり合わせてできるだけ誤差を少なくして伝えられるのか。
それは書き言葉だけの問題ではなくて、読み手が誰かということと密接にかかわります。この本を読んだだけではわからないのですけれど、でも日本語を母語とする筆者がフランス語でフランスの読者を意識して書いた文がまずあって、それが日本語になっていく過程はとても興味があります。
伝え合いのすべてが翻訳だ!
そんなことを考えていると、SNS上で友人が書いた以下の文章が目にとまりました。
通訳はただ言葉を訳すだけではない。文化的なコンテクストを踏まえた上での対応が必要だと痛感しています。
この場合は通訳ですけれど、でも翻訳も同じです。
もちろん、特定の話者間で行わる行為に介入するケースが多いであろう「通訳」と、不特定多数の読者が想定される本の「翻訳」という作業それぞれの踏まえるべきコンテクスト(文脈)は違いも多いでしょう。でも、ニュース映像の「通訳」なんかもあるわけで、あれなんかは不特定多数の聴者が対象になるわけですよね。そう考えると、通訳と翻訳に本質的な差はないように思えます。どうでしょう?
「伝わる」とはなんなんだろう?と、最近よく考えます。
例えば、『ベイルート961時間』という本の内容を、私はどれだけ理解できたのだろう。関口涼子という人の思いは、どれだけ私に伝わったのか。どう考えたって、関口さんの思ったようには伝わっていないのだろうなと想像するのです。
それでも、伝わるものはあって、それはどれだけ“本質”に近いのだろうか。私はどれだけ関口さんの文脈をキャッチできているのか。
「身体の外はすべて異境」というようなことを、言語学者で越境の達人である西江雅之が表現していたはずです。それをお借りして「伝え合いすべてが翻訳」と言ってみたい。
先日会った友人にそんな話をしたら、「何いまさら当たり前のことを言っているの?」という反応でした。そうだよね。自分の思っていることを、なんとか相手に伝えようとする。あるいは相手の言っていることを、なんとか理解しようとする。その作業すべてが翻訳だというのは、それほど判りにくいことではないでしょう。
相手の(読者の、書き手の、発話者の、聞き手の)文脈を読む、配慮する、というのは、油断するとアッパーな態度、上から目線、という感じもあります。最近では、慮るのはだいたい強者です。
それでも、強者≒悪、でもありますまい。それができるのであれば、配慮できることを恥じることはない。むしろ、相手のことを考え「伝え合い」を深めるための作業は、喜びとして感じられることでもあるでしょう。ならば、すればいい。そんなふうにも思います。特に、伝えたいことがあるのならば、できる限り伝わるようにしたいじゃないですか。とすれば、翻訳という加工作業を大事にするしかない。そこに手間を惜しんで「伝えたい」という思いだけがあるとすれば、それこそアッパーであり、不遜なのです。自己満足と誹られても仕方ない。
翻訳ソフトの使い方、文体ということ
ところで、最近の自動翻訳、なんかすごいことになっているように感じます。主に日本語と英語のあいだでよくインターネットの無料翻訳サイトを使うのですけれど、意味が通じるという点でほとんど問題なしです(もちろん、訳しやすい文章を入れることは強く意識してでの話ですけれど)。丁寧語の使い方など、こちらの意図を超えて翻訳ソフトが気を使ってくれているようなところさえある。おそらく「仕事文体」というやつなのでしょう、ソフトの目指すのは。
近い将来、読み手を指定しての翻訳機能が出てくると思います(すでに存在するのかも)。友だちモード、家族モード、職場モード、上司向け翻訳、部下向け翻訳、高貴な方向け翻訳、等々。今、そういうソフトを開発している人がきっといるのだと妄想することは、たのしいことです。
となってくると、次に気になるのは“文体”です。私が“文体”を意識できるのは、日本語だけです。英語の文体など、とてもとても。ましてや、カンボジア語となれば、そこは翻訳者に委ねることになります。まさに、縁まかせ。
となるとですね。以前は、英語をカンボジア語に自動翻訳した上で翻訳をお願いしていたのですけれど、最近は意図的に英語のままで渡すようにしています。そして「自動翻訳を使わないで訳して欲しい」と伝えるのです。
ここは、賭けるしかない、と思うのです。縁と運に。翻訳者の文体に、賭ける。きっとそれは自分でコントロールしない、できない、という点で、まっとうな「伝え合い」の過程なのです。素敵な共同作業になるといいなぁ。
さて、手元にある『ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)』という本から素敵な文章をひとつ。
「わたしは、その後起こる長い出来事の長い前夜に立ち会っていた。そして皆と同じように、前夜にいたことを知らなかった。前夜は、常に自分が待ち受けていないところに現れる、そして「当日」はすぐ近くにいる。」
私は明日会う友人に、この本を進呈するつもりです。


















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