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冒頭の写真に写っている本。左上から時計回りにいきましょう。
井上洋子、桜井昌司、杉山卓男、そして谷岡雅樹
井上洋子著『ショージとタカオ』 (文藝春秋 2012)
「獄中29年、仮釈放から15年。布川事件の“冤罪コンビ”が再審無罪を勝ち取るまでの軌跡」と内容は紹介されています。谷岡雅樹さんという(おそらく)映画評論家である方とFacebookで私、友だちになっています(偶然、お互いにまったく知らない者同士です)。彼が書いていたことで、井上洋子さんのことを知り、この本を読んだのです。
Facebookでの谷岡さんのその投稿にあげられていた写真には「故井上洋子 お別れの会会場」とありました。
井上さんは、布川事件の冤罪コンビである桜井昌司氏と杉山卓男氏と出会ってしまって、そして彼らのドキュメンタリー映画(紹介した本と同タイトル)を撮ったのです。出会ってから14年をかけて、完成させたのです。すでに故人となってしまった井上さん、きっと私とほぼ同世代です。『ジョージとタカオ』という映画、私は未見です。布川事件のこともなんとなくしか知りませんでした。20歳(ショージさん)と21歳(タカオさん)で逮捕され、無期懲役の判決を受け、仮釈放になったとき49歳(ショージさん)と50歳(タカオさん)。そこから再審請求が認められ、無罪判決を勝ち取ったときには、65歳(ショージさん)と66歳(タカオさん)。
そして、仮釈放の数年前からカメラを回し始めた井上さん。さらに、井上さんの死に際して、女性ドキュメンタリー監督の系譜をFacebookにつづった谷岡さん。
兵(つわもの)、という言葉が浮かびます。夢の跡なんてことはない。兵たちがここにいる、もちろん彼らは強者(きょうしゃ)ではないでしょう。兵の語弊がわるければ、勇者。ここに無名の勇者がいた。そんな風に私は思うのでした。
舟越美夏、スナー、ソパ………
舟越美夏著『その虐殺は皆で見ないことにした:トルコ東南部シズレ地下、黙認された惨劇』(河出書房新社 2020)
舟越美夏著『愛を知ったのは処刑に駆り立てられる日々の後のだった』 (河出書房新社 2019)
舟越美夏さんの本では、『人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派、語る』(毎日新聞社 2013)は以前読んでいました。『愛を知ったのは…』も読んだつもりだったのですけれど、どうやら未読だったようです。さらに、『その虐殺は皆で…』も気になっていたのです。でも、もうタイトルが重くて、ついつい後回しにしていたのでした。
そして、やっぱりFacebook。高校時代の同級生が舟越さんをよくご存知だったのです。その縁で、舟越さんとかすかにつながって。それで、やっぱり彼女の本を読んでみようとプチッと購入して、浅草経由船便プノンペン行の便が、ようやく到着したのでした。
『その虐殺は…』を読めば、知らない場所で知らない人たちが殺されていたことを思い知ります。シズレという町をGoogleMapで探します。見つける、あぁ、ここなんだ。トルコ政府、ひどいことを。クルドの人たちの困難さを改めて思います。
そして、『愛を知ったのは…』。こちらはチェチェンや、ロシアや、北オセチア、チベット、アフガン、モーリタニアといった場所でのやはり厳しく辛い事実が語られる。そして、本のタイトルにもなっているのがカンボジアのポルポト時代のサバイバーの話。
スナーは、舟越さんが共同通信社プノンペン支局に勤務していたときの支局のスタッフの一人です。有能なのが舟越さんの文から伝わってくる。彼の父親はポルポトが倒した政府の軍司令官で、つまりスナーの父・母・妹がポルポト時代に殺され、スナーだけが生き残ったのです。
ソパは、舟越さんが出会ったときには、ポルポト派の中でポルポトに次ぐナンバー2だったヌオンチアの世話係でした。ヌオンチアの自宅は、タイ国境に面するカンボジア最西部の町パイリンにあり、ソパもそこで暮らしていました。彼は10歳のころにはポルポト兵として生き、常に処刑する側にあり、実際に10歳で殺人も経験しています。もはや何人殺してきたのか、本人にもわからない。
2007年に80歳のヌオンチアがポルポト派特別法廷(カンボジア国際特別法廷:2006年から2011年の5年間だけで、日本政府はこの法廷の財源の半分を大きく超える54億円強を支出しています、出典Wikipedia“カンボジア特別法廷”より)によって逮捕され、ソパはポルポト兵としての軛から自由になったのです。
世界各地で取材を続ける舟越さん。殺される側を生き延びたスナー。殺す側を生きたソパ。
カンボジアに縁あり、プノンペンで長く暮らしていて、私はこれまでいくつもの結婚式に招待されました。結婚式(日本のそれとはまたずいぶんと様相が違うのだけれど)に参加すれば、そこには幸せそうなカップルとその家族や多くの客人たちがいる。その中には、私と同じかそれより高齢の人たちの姿もある。この結婚式の場に人を殺した経験のある人はいったい何人いるのだろうと、思うのです。そう、結婚式にいけば、必ずいつも思う。ただ、思うだけ。
ここで挙げた舟越さんの2冊の本には、スナーとソパ以外にも多くの人たちが登場します。そして、それぞれの人生を生きている。多くが厳しい状況の下で生きている。そして、数多くの殺された人、抗議の自死を遂げた人、さらに殺す側に身を置いた人たちの人生の断片/破片が散りばめられている。みながそれぞれの物語を生きている、生きた。
角幡唯介、高野秀行
角幡唯介著『裸の大地 第二部 犬橇事始』 (集英社 2023)
高野秀行著『イラク水滸伝』(文藝春秋 2023)
角幡唯介さん、高野秀行さん、どちらももはや超有名な“冒険家”。それぞれのスタイルの色合いはずいぶん違うけれど、どちらの本が出れば、私は読む。
それぞれ面白いに決まっているわけで、もはや、絶対安全読書の類。
今回も、そうでした。角幡さんは、本人もあちこちで書いているように、私の敬愛する本多勝一さんの影響を、特に冒険・探検論で受けている方。本多さんが中途半端?で放り出していたその冒険・探検論を、さらに磨き上げ自ら実践しているわけで、その生きざまがやっぱりとっても気になる。
「犬橇をつづけるうちに、私は、もしかしたらこの信じて託すという境位は、自力や自由よりも深いものがあるのではないかと考えるようになった」(185ページ)
あぁ、わかるよ、角幡さん! それは、コントロールできない、しないってことだよねぇ。
高野さんの書くモノは、「異世界とのかかわり方」という点で、実はとても参考になるのです。彼の探検技法は、開発支援従事者として学ぶところがとても多い。探検というよりも、異世界の人たちとの関係構築法として、素晴らしい。
「まず、誰か信頼できそうな人を自分の取材パートナーに決める。それから、時間をかけて、その人に自分のやりたいことを丁寧かつ詳細に話す。すると、その人が助手件通訳になってくれるのだ。(中略)私はこれまでタイ語のほか、中国語、フランス語、スペイン語、ソマリア語などでこの術を使ってきた。エンジニアリング的な語学とは対極にあるプリコラージュ語学の神髄ともいえる」(311ページ)
あぁ、わかるよ、高野さん! 計画なんかし過ぎたってしょうがない。とにかく、現場で試行錯誤しながら、しかも出会った人たち次第で事が動いていくってことだよねぇ。
で、角幡さんは裸の大地第三部に向かっているはずだし、一方、高野さんは次は何が飛び出すのか。次に出る本も買っちゃうのは必須。彼らの行動と、積み上がる年齢との駆け引きも注目です。
ところで、私の大学院の先輩にあたる東村岳史氏が彼自身のアイヌ研究の著作の中で「探検・冒険というのは極めてマッチョな思想」ということを書かれていて。マッチョというのは、つまり男性優位主義です。探検・冒険好きの私としては、かなりドッキーンとしたのでした。いや、東村さんのおっしゃっていることはよくわかる。ちょっと慎み深く、探検冒険を考えなくちゃと思うのでした。
ジョンレノン
ジェイムズ・パタースン著 加藤智子訳『ジョン・レノン最後の3日間』(祥伝社; New版 2021)
こちらの本は特におススメってわけじゃありません。
でも、最近、ビートルズ、新曲 “Now and Then” が出て、話題になってる。この曲、私もインターネットで何回も聴きました。いやー、レノン節、よいねー。よいよい。それで、ついこの本も写真の中に入れ込んじゃった。
もともとのカセットテープ原版で歌われていたパートが一部使われずに捨てられた等々、ちょっと不満がないわけではないけれど、でも、新曲、嬉しいです。
ジョンが撃たれて亡くなったのは1980年12月8日。私は高校1年生の16歳。ちょうどビートルズを卒業し、ジョンレノンにハマり始めていたときでした。今でも、2学期末試験中だったその日のことはよく覚えています。昼過ぎごろに学校から帰宅すると、従兄弟の邦ちゃんが「哲ちゃん、ジョンレノンが撃たれて死んだよ」と告げたのです。前夜徹夜の私は、その午後は寝て。日が暮れてから翌日の試験科目に取り組みつつ、深夜ラジオでずーっと朝までジョンレノンでした。試験勉強より流れてくるジョンレノンのほうが大事だったのはもちろんです。ですから、翌日の試験の結果は、覚えてないけれど、まぁダメダメだったでしょう、いつものように。
あの日ジョンはまだ40歳です。16歳だったおいらはもう59歳だよ。ジョンを20年も超えてしまっているわけで。ジョンレノン、今でもよく聞きます。“Now and Then” 、泣けます。
中村哲
中村哲著『中村哲 思索と行動 ――「ペシャワール会報」現地活動報告集成[上]1983〜2001』(ペシャワール会・発行/忘羊社・発売 2023)
中村哲さんも、撃たれて殺された。そのとき、彼は73歳。今の私より14歳年上。あと14年かぁ。俺は、中村哲さんより長生きするぞっ、とは思うけど。
この本、ゆっくり読んでいます。まだ完読していません。
彼がパキスタンでハンセン氏病対策に従事し始めたのが1984年。そして、この本の中でつづられているぺシャワール会報を読んでいくと、1990年ごろにペシャワール会が段々にパキスタンに人を派遣する準備ができていくのが感じられるのです。
1990年、私がJICA青年海外協力隊でケニアに向かった年です。このとき、ペシャワール会も中村哲も、私はまったく知らない。まだインターネットはなく、パソコンだって一般化する前のことです。もし、あのとき、ペシャワール会や中村哲さんのことを知る機会があったら…、とちょっとだけ思わないでもないのです。もしかして、違う人生があったのかもしれないなんて。ま、それは置いといて。
中村哲、巨人だと思います。ホンモノだと思います。早く[下]も出ないかな。この[上][下]は、じっくり味わって読んでいきます。
目取真俊、加藤寛幸
目取真俊著『ヤンバルの深き森と海より』(影書房 2020)
加藤寛幸著『生命の旅、シエラレオネ』 (ホーム社 2023)
目取真俊さんは、沖縄本島北部で育ったウチナンチューで、小説家。でもここで紹介している本は小説ではなく、彼が2006年から2019年までに様々な媒体に発表してきた時評・論考を集めたものです。
やはり沖縄本島北部、名護市辺野古地区にあるキャンプシュワブの東南を埋め立てて造るV字型飛行場や、やはり本島北部の東村高江地区のヤンバルの森の中に建設されたオスプレイ用ヘリパットを巡って、ウチナンチューの視点で目取真さんは書くのです。彼は身体を張って反対活動に取り組む行動する作家です。座り込みもすれば、カヌーを漕いで辺野古の海で海上保安官の活動を阻止するため身を投げうつ。
そこから書かれたものに一貫しているのは、「ヤマトゥの沖縄への無関心」への怒りです。沖縄に、日本全体の75%の米軍基地を背負わせる無関心さ。それはもう、沖縄への差別ではないのか。彼のその問いかけに、ヤマトンチューである僕はうなずくしかない。“僕たち・私たち”はオキナワを差別しているのです。否定できない。
目取真さんは、沖縄から、それを突きつける。突きつけるために、行動し、書く。
加藤寛幸さんは、小児科のお医者さんです。そして、国境なき医師団に参加し、シエラレオネの東部、ギニアとリベリアとの国境に近い町カイラフンにあるエボラ出血熱治療センターで2014年11月10日から約一ヵ月間活動しました。そのことを、7年後につづったのが『生命の旅、シエラレオネ』 です。
2014年のアフリカでのエボラ出血熱の感染拡大のことは、もはやコロナ騒動で忘れさられているかもしれません。あのとき、シエラレオネ、リベリア、ギニアといった国々での、全身を覆う感染予防服を着てエボラ患者を治療する人たちの映像が、日本のテレビの画面にも流れました。
加藤さんがシエラレオネに派遣される数か月前の2014年8月の下旬に、コンゴ共和国でもエボラを疑われる症状者が報告され、さらに死者もでたというニュースが流れました。日本国政府は、コンゴ共和国を含むエボラ感染発生が疑われる国/地域に入国した人が日本に入国する際には、一次的に隔離する等の処置を取ると発表したのです。
そして、その直後、ルワンダで働いていた私は、ルワンダ西部のコンゴ共和国との国境沿いで開かれた校長研修プログラムに参加するために数日過ごしたのです。川向いのすぐそこはコンゴ共和国という研修会場もありました。その国境沿いではエボラ感染の話はなかったはずですけれど、対岸のコンゴを眺めながら「あぁ、あっちに渡ったら、日本に戻る際に大変なんだなぁ」なんて思っていたのでした。そして、その出張から首都キガリに戻る途中で、私は事故に遭って、脊髄損傷で下半身麻痺となったのです。
そんなわけで、私には2014年のエボラ騒動はとても印象的な出来事なのです。
あぁ、あのとき(私はすでに日本の病院で治療中)、加藤さんはカイフランで奮闘されたのだなぁと、なんとなく彼の日々を身近に感じたりするのです。
日々の暮らしの中で、沖縄の高江や辺野古、あるいはシエラレオネのカイフランなんか、そりゃ直接の関わりはない。
思い立ってGoogleマップで、高江を探してみます。名護市や東村まではたどり着けるのだけれど、なかなか高江が見つからない。ようやく、Marine Corps Jungle Warfare Training Centerという表示を見つけます。米軍海兵隊北部訓練場……。英語を直訳すれば、海兵隊ジャングル戦闘トレーニングセンター。目取真さんたちが、機動隊に殴られ蹴られたのはこの近くのはずです。
さらに辺野古も。キャンプシュワブ南側の埋め立て地のための堤防が映ります。おそらく、今ではもっと埋め立てが進んでいるはず。
さらに、シエラレオネのカイフランを探します。わりと簡単にたどり着いたカイフランは西アフリカの大地に星のように点在する小さな町のひとつでした。
私たちはどれぐらい手を広げることができるのか? 視野を広げることができるのか? 広げた手は、広がった視野は、何に活かせるのだろう? 沖縄に基地を押し付け続けているヤマトンチューとして、目取真さんの前で私は“無実”ではない。2014年のエボラ感染で多くの死者が出た西アフリカの小さな町に対して、持てる国に生まれた私は何ができて、何をしたのか?
そう問いながら、自分の手の届く範囲の狭さを私は知っています。そして、たまたま出会ったものとしかかかわれない。かかわり切れないことが、やっぱりある。
その点では、目取真さんも加藤さんも、仲間であって欲しい。それぞれ、できる範囲でできることをするという意味で。
リリーフランキーと、のぼりぐちみちこ
みうらじゅん/リリー・フランキー著『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃ亡いですか』(新潮文庫/新潮社 2021)
佐野洋子/西原理恵子/リリー・フランキー著『佐野洋子対談集 人生の基本』(講談社 2011)
リリー・フランキー著『リリー・フランキーの人生相談』(集英社 2009 )
のぼりぐちみちこ著『ウンチを出して「車イス」を脱ぐ』(自費出版 2023) こちらは写真中心位置しています。
そして掉尾を飾るのが、白組からはリリーフランキーさん、紅組からはのぼりぐちみちこさんです。
私、俳優リリーフランキーを信用しています。彼の登場する映画なら、見て大丈夫、というような。もしもそれが駄作だとしても、少なくとも彼のちょっとした目線のずるさ、スケベさ、狡猾さ、真摯さ、は拝見できるのだから、まぁいいではないかと。
で、彼の対談や、人生相談です。あぁ、くだらねー!と笑うわけです。人が生きるということは、つまりは香ばしく、甘酸っぱく、ほろ苦い…、ってことなんでしょうね。それを割りと淡々とやりきっているのがリリーさんかなぁ。例えば、リリーさんて一つ間違えばプノンペンでオレオレ詐欺のボスやっている、なんてこともありそうなわけです。そうそう人は正しくは生きれない。そもそも正しいってなんだよ? そういうことを考えさせるのですから、リリーさん、哲学者でもあるわけです。やるなぁ。彼は私よりも一歳年上なのです。リリーさんを眺めると、あぁ俺もこういう歳なのだなぁと思ふ。
で、のぼりぐちみちこさん。本では著者名をひらがなにされていますけれど、登り口倫子とも表記されている場もある。ここでは登り口さんでいきます。
登り口さんは、脳性麻痺のため、電動車椅子を用いて活動しています。パソコン操作や食事といった手元の動作以外のすべてに介助が必要です。私と同じ障害者世界の人なのです。
彼女を知ったのも、Facebook。以前、カンボジアで知り合った方が登り口さんの本をFacebookで紹介されていて、私もその本を読んでみたくて登り口さんにコンタクトしました。自費出版のこの本『ウンチを出して「車イス」を脱ぐ』は、登り口さんから直接購入したのです。
本の中で、登り口さんはかなり明け透けに自らを語っています。その飾りのなさが、リリーフランキーさんと重なる、重ならない? まぁ、どっちでもいいのですけれど、本を読んで素直に「イケーイケー、のぼりぐち、生きてこ生きてこ、ミチコ!」と応援したい気持ちになりました。
彼女の得ている障害の方が、私よりはずっと大変。私より、ずっと香ばしく、甘酸っぱく、ほろ苦い…のだろうなぁ(そうでもないかな?)。
登り口さん、以下のインタビュー記事(これは3回掲載の1っ回目)をご紹介しておきます。
「介助と青春の狭間で―自らボランティアグループ作り」登り口倫子さん1回目 | 当事者の語りプロジェクト -重度訪問介護制度を利用する重度障がい者の等身大の姿- (wawon.org)
人生とは人それぞれの“作品”であるなぁとつくづく思ふのです
あぁ、今回はいつも以上に長くなってしまいました。すいません。ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。
でね。彼らの本を読んでいると、つくづく人生はひとつの“作品”だなぁと思うのです。作品ですから、どうしたって出来不出来はある。ここに登場した人たちの多くは、出来のよい作品なのかしら。
出来具合はとにかく、生きてりゃ作品になっちゃうのだから仕方ない。そして、いったいどれだけの作品と袖触れることがあるのだろうと、思う。
私の師匠筋の金森正臣先生が、最近彼自身のブログの中で「ユングは、同じ経験をした者同士で無いと言葉が同じ意味には伝わらないと、言っている。皆さんはこの様な経験が無いであろうか。言葉による意味の違いを、深く知る必要がある」と書かれていました。
つまりね、彼女ら彼らの本を読んでも、果たして私がそれをしっかり理解することができたかどうかは、実はわからない。そうそう簡単には理解しきれてないってことはしょっちゅうある。
例えば、目取真さんのヤマトゥへの怒りを、私はきっと理解できていない。私の想像は、目取真さんの思いをファールチップするばかり。
例えば、舟越さんの見たこと、聞いたこと、嗅いだ匂い、そこで口にした水の味、クロマーを揺らした風、つまり五感を通して知ったいくつもの殺戮、彼らの痛み…。私の想像は、少しでも“理解”につながれるのか、つながれないのか…。
パレスチナの人たちのこと、思いが籠る彼らの「言葉」を果たして私は理解できるのか?
4日間の休戦だそうです。なぜイスラエルは、パレスチナの住民をイスラエルで保護しないのだろう? 休戦があったって、彼らはどこへ逃げればいいのだろう。それとも、母国を守らなければならないというイスラエルの人たちの「言葉」も、私は理解できないだけなのだろうか?
そして、私は私の作品を今作っているわけです。もう残りページのほうが少ないことははっきりしている。さて、残るページ、どうつづるか? 溜息つくばかり、なんだよなぁ。


















ご無沙汰しております。
私は視覚障害児の学校に勤務しておりました。
就職したとき、障害のある子どもたちと接するのは,彼らの人生全部と関わることが必要だと思いました。学校の期間だけ一生懸命教えれば良いんですよ、との付き合いをする人もいて良いと思います。でも,私はその選択をしませんでした。
私は,カンボジアでの調査では一切の公的資金を使いませんでした。もちろん、使えませんでした,と言う面もあります。あなたは公的な資金を得られない評価なんですよ、と言った方もいます。数年前までは、JICAとも日本大使館とも日本人会とも,関わりなくここまでの教育調査をしました。ですから、これまでいろいろコーディネイトしてくれた妻へは感謝だけでなく、尊敬しております。妻は、私がカンボジアの教育へ大きな(?)力となると思い,支援し続けていると思います。妻がいなければ,私がここで築きあげた結果やそれを元にした人脈はありません。
妻は,ポルポト時代に8人きょうだいの6人までが虐殺されました。きょうだいが連行されるときの姿を思い出すから、と言って私が後ろ手を組むのを嫌がります。ですので、私が虐殺博物館へ行くことを拒みますので、行ったことがありません。
雑ぱくな感想と受け止めていただければ幸いです。
匿名様
読んでいただき、そしてコメントもいただき、ありがとうございます。
書いてくださったもの、高野秀行さんの以下の部分
「まず、誰か信頼できそうな人を自分の取材パートナーに決める。それから、時間をかけて、その人に自分のやりたいことを丁寧かつ詳細に話す。すると、その人が助手件通訳になってくれるのだ。(中略)エンジニアリング的な語学とは対極にあるプリコラージュ語学の神髄ともいえる」(311ページ)
ってあたりに触発されてかいてくださったのかなぁ、と想像しています。
私も、パートナーはカンボジアの方です。彼女には私のカンボジアでの仕事をずいぶんとサポートしてもらっています。本当にありがたいことです。
高野さんの「助手件通訳」と、私のパートナー氏、似ているところも多いのです。けれど、大きく違うこと。それは高野さんの助手件通訳は、期間限定。高野さんの滞在は長くて数か月、短ければ数週間。もちろんきちんと謝金も払われる。それに対して、私のパートナー氏は、24時間雇用??(彼女は平日日中は自分の仕事で出かけていますけれど)
そこは、気をつけなくちゃいけないところだなぁと自分に言い聞かせています。依存し過ぎになるとダメと。私は身体障害があるので、余計依存に気をつけないと、と。
匿名様のパートナー様の献身ぶり、すごいなぁ偉いなぁ見事だなぁ。ちょっとうらやましいぐらいだなぁ。
村山哲也
村山さんは雨期明けを祝う賑やかなプノンペンから何所そかへ移動するらしく、今回は軽い、字数は多くなるが軽く読後感を・・・というようなこと書いているが、恥ずかしい話し、人生をそれこそイイカラカゲンに生きているから『読んだ後のコメントを』などと促されても手はほとんど動かないです。
制空権も未だにアメリカに支配される非独立国日本の米軍基地の75%を背負う沖縄で体を張って活動する目取真さんの ”ヤマトゥへの怒りを、私はきっと理解できていない” という村山さんの記述に関連して、辺野古への移設問題が遡上したときにある集会で 「”キャンプシャワブからキャンプヘノコではなくキャンプトウキョウへ” とキャンペーンをはったらどうか。必ず在日米軍基地問題について議論が起こるから」という主旨の発言をしたら、若い女性市議から『そもそも基地があることが悪いのにあなたはこの集会の意味を何も解っていない。基地は悪いんですよ!』と半分怒るように、半分諭すように言われたその集会を想起しました。
私は辺野古問題で現地での反対座り込みへのカンパと東京から座り込み要員派遣取り組みへのカンパしかしたことがない。住んでいる街で行われている辺野古移設反対運動の行動にさえも参加していない。あとは家の中で、心通う仲間と愚痴をこぼすだけ。本当に堕落した生活者です。
この夏に、非メデイア系の女性映画監督が自らカメラを回した、那覇から70㎞(?)離れた最西端の島のミサイル設置、自衛隊員配備による村の崩壊の現実を映した生テープの上映と講演を聴いて帰宅した日の落ち込んだ自分の心情に次ぐ自分に対する嫌悪の情を味わう一夜になりました。
人生は ”作品” だ、その通りです。今晩も自責の念で眠れないか。
匿名様
いつも読んでくださってありがとうございます。コメントもありがたく読んでおります。
「基地は悪いんですよ!」と言った市議さんに、目取真さんならなんと言うか。「その悪い基地を沖縄に押し付けているのは、ヤマトゥの人たちですよ」と言うだろう。悪い基地、なくせないのならば、少しは本土で引き受けよと言ったでしょう。
詳細はわからないまま書いていますが、「キャンプトウキョウへ」は、まだ目取真さんの心を少しは軽くしてくれたでしょう。
ちょうど昨夜、オスプレイが火を噴いて落ちましたね。溜息です。
ところで、「堕落した生活です」「自責の念でねむれないか」。
以前、水俣病が社会問題化したときに、電気製品等の現代文明の恩恵を受けていて水俣病に無関心なこの社会の大多数のひとたちは「皆、加害者である」という論調があったそうです。そのことと、沖縄の基地問題に対して反対の行動を起こせない人は「沖縄への加害者である」という論調には何かつながりを感じます。
たしかに
目取真さんの文章には、ときどきそんな怒りがほとばしっていました。
けれど・・・・・
ガザに対して、何もできない人たちは、加害者か?
ウクライナもそう。数年前の香港もそう。戦争や圧政を止められなかった。
途上国の貧困を解決できないのは、私たち先進国の富める者たちのせいなのか。
そうだともいえるけれど、それで責任という話になるのでしょうか?
日本での派遣社員拡大を許してしまった世間も、今の貧困拡大に一役買ったともいえる。
被爆国であるのに、原子力発電の増大を許して、電気を消費し、そして今も原発再稼働へ一直線の政府を止められない私たちも、フクシマ第2事故の間接的加害者。
切りがないです。切りがない。
おそらく、こういう「私も間接的加害者」という考え方にはどこか罠があるような気がします。もちろん、ときには必要な思いではあるかもしれないですけれど、でも、それで「眠れな」くなってはダメなんだと思うんです。
たっぷり寝て、たらふく食べないと。
もちろん、あまりに無駄なエネルギーを消費する(そのラインも明確には示せませんけれど)のもダメだと思いますけれど。腹八文目、ってことなのかな。
そんなことも思いながら、匿名氏のコメント、ありがたく読んでおります。
村山哲也