11月、カンボジアでは雨期から乾季に移り変わる季節です。乾季の到来をお祝いするかのように開かれるのが水祭り。満月の夜にあわせて、各地方地区からの代表がプノンペンに集結して、王宮前のサップ川で熱い戦いを繰り広げます。けれども、政府の都合で開いたり開かれなかったり。
今年は地方大会は実施されましたけれど、恒例の王宮前の全国大会は中止となりました。COVIDが理由のひとつのようですけれど、おそらく政府に十分な予算がないのだろうと私は推測しています。それこそCOVID対策、さらには観光業の不振などで、水祭りにかける予算はなんじゃないかしら。しかも、水祭り明けには今年はプノンペンでASEAN首脳会議が開かれますから。
そういうわけで、今年の水祭り11月7日8日9日の三連休は、例年なら地方からプノンペン目指して人の大移動があるのですけれど、今年は逆で。多くの市民がプノンペンから故郷に戻ったり、旅行に出かけたりしているようです。
私も、パートナーの仕事が休みになったのを機に、久しぶりにホーチミンシティに出かけたのです。ホーチミンシティに出かけるのは、おそらく10年ぶりのことです。車イス者になってからは、初めての訪問でした。
懐かしのホーチミンシティ
ホーチミンシティ、旧サイゴン、私はもう何回も訪問しています。
最初は観光で1995(平成7)年ごろのはず。本多勝一の著作を高校時代からむさぼるように読んでいた私です。当然、彼の出世作であるベトナム戦争のルポ『戦場の村』も熟読したものです。本多のベトナムを入り口に、いわゆるベトナム戦争モノもずいぶんと読みました。開高健、石川文洋、沢田教一、一ノ瀬泰三、大石芳野、中村梧郎……。ですから、初めてのホーチミンシティに、彼らの影を街角のそこここに探したものです。「あぁ、これが開高健の定宿だったマジェスティックホテルかぁ」「このチョロンのビンタイ市場の近くに石川文洋の下宿があったのだなぁ」というように。
1997(平成8)年のホーチミンシティへの2回目の訪問は、郵政省による郵貯ボランティア貯金の支援を受けているNGOの活動評価調査という仕事でした。仕事でベトナムに来たのは、そのときが最初で最後です。
その後、プノンペンで仕事をする年月が長くなって、となると気楽に遊びに来られるホーチミンシティにはよく来ました。ホーチミンシティで働く日本人の人たちの野球チームと試合するためにプノンペンから野球仲間と遠征したこともあります。とにかく、懐かしい場所なのです。
1997年の仕事のときの話を少し。
この郵貯ボランティア貯金の仕事では、日本のNGO団体から支援を受けているホーチミンシティ内の病院を訪問しました(でも、今ではどこの病院だったかさっぱり覚えていませんけれど)。さらには、ハノイに移動し、北部山岳地帯の麻薬患者の更生施設や、少数民族の多い地区での医療機関など、観光では絶対に訪れることができないような場所にも入り込んだのでした。
この仕事で向き合ったベトナムは、観光で見るベトナムとはかなり違った様相がありました。タフネゴシエイター(手ごわい交渉相手)という言葉があります。そして、世界のタフネゴシエイターと私が認識しているのが、インド、ベトナム…、そういえばルワンダもかなりタフ。
訪問した病院の院長は、ことあるごとに「越日友好の絆があるからお話するのですけれど」という言葉を使って、けれどそれはまさに慇懃無礼なのです。NGOが提出したレポートを見ながらあれこれ質問をしたのですけれど、通訳を通してということもありますけれど、なんかのらりくらりで、話がなかなか肝心のポイントにたどり着かない。まさに手ごわい!という感じ。
さらに、都市部を離れて地方に行くと、とにかく朝昼晩とその地方の公務員がぴったりと私たち調査団(といっても私ともう一人の二人だけ)に張り付いて、そして乾杯乾杯なのです。乾杯というのは文字通りお酒、それを朝からヤルわけです。そして出てくる言葉は「越日友好」、乾杯しては「越日友好」。朝から酔わせて調査を邪魔しているんじゃないかと疑ってしまうような雰囲気でした。しかも、上(地方政府事務所)から下(現場の施設)まで、とにかく言うことがまったく同じなのです。たとえばフィリピンならば、現場なら現場のぶっちゃけ話みたいなものが出てくるのですけれど、ベトナムはそれがない(あくまで一個人の印象よ)。そのディプロマティックぶり(外交的かけひき)に、当時まだ若い私はずいぶんと力が入って身構えたのが今となってはなつかしい。
車イス者のホーチミンシティ市内の移動について
さて、今回の10年ぶりのホーチミンシティです。車の多くが新しくてきれいで、すっかり垢ぬけたねぇという感じがしました。コロナ禍の影響を感じたのは、有名なベンタイ市場周辺です。多くの店のシャッターが閉じたままでした。そのほとんどはいわゆる古い店です。おそらく10年以内には、あのベンタイ市場周辺は大きな都市開発が行われるんじゃないかなぁ。そんな予感がします。また、インターネットで調べて訪ねた店が何軒も営業していませんでした。そのすべてがコロナ禍の影響かどうかはわかりませんが、古い店の多くがコロナ禍を機に何か商売の仕切り直しに入っているような印象を受けました。
それでも観光客はかなり戻ってきているようでした。私たちは市内第一区にあるオペラハウス近くの小さなホテルに宿をとったのですけれど、オペラハウス周辺には随分と欧米や(多分)日本からの観光客の姿が見られました。
でね、車イス者としての初めてのホーチミンシティであったのですけれど。私は街中を歩くのはけっこう好きだったのです。そんなんで今回も車イスを押してもらいながら、ずいぶんと街中を移動したのですけれど。いやー疲れた!何が疲れるって、歩道はあるものの、ガタガタなのです。石のタイルが敷かれているのですけれど、それがあちこち波打っている。さらには駐車中のバイクや、あるいは歩道までイス机を広げる屋台なども多くて、通りにくいったらありゃしない。交差点にくれば、歩道と車道の段差もかなりある。極めつけは、公園などの広場です。その入り口にはバイクの乗り入れを防ぐための低い鉄柵がある。歩く分には簡単にまたげる高さなんですけれど、車イスには敷居が高い!これには参りました。今回は介助者が一緒でしたから、しんどいながらもなんとかなりましたけれど、車イスひとりでの街中移動はかなり厳しい印象です。その点はプノンペンも同じですけれど(対して、東京のバリアフリー状況はやっぱり随分と快適です)。
市内には公共バスのネットワークも発達していて安く移動できるのですけれど、このバスは私の見る限りまったくバリアフリー機能はありません。たとえ介助者がいても、あのバスの階段を上るのはほとんど不可能です。
救いはタクシーでしょうか。流しのタクシーがたくさん走っています。このタクシー、以前は怪しいメーターも多くて、ずいぶんと気を使ったものでした。油断しているとぼったくられるのがホーチミンシティのタクシーだったのです。
けれども、今回使った限りでは、今やそういう心配はもう必要ない。黙っていてもきちんとメーターを使ってくれますし、怪しいと感じるメーターもありませんでした。さらに、車イスの乗車を嫌がる運転手もいませんでした。高い座席のタクシーであれば、運転手が抱きかかえて座席に乗せてくれるのです。今のところ、ホーチミンシティでの車イス者の移動はタクシーに限る、です。
そういえば、面白かった?のが、2日目の夜にお邪魔した料理教室。電話で「車イス者だけれど大丈夫?」という問い合わせをして、「大丈夫だよ」の返事をもらって参加したのですけれど。行ってみると全然大丈夫じゃないんですよ。電話では「階段があるけれど、みんなで運び上げればいいのだから、心配なしよ」ということだったのですけれど、行ってみると階段は狭いし、私を運び上げる人手も足りない。私たち夫婦と、同行した姪っ子3名の計5人でその料理教室を申し込んだのですけれど、結局私は3階にあるキッチンに上がることができず、階下でひとり本を読んで過ごしました。妻と姪っ子3名の4人でキッチンで先生から料理を学び、食事は私も一緒に地上階で楽しんだのでした。
ここには、私はベトナムっぽいおおらかさを感じました。そりゃ問い合わせられれば「大丈夫!」って答えるよねーって感じ。そして、実際に大丈夫かどうかは、そのときの状況次第なわけです。ま、それでしょうがないじゃない? このときの料理教室、食事は私もしておりますので、料金は私の分も含めて5人分払いましたよ。あぁ、料理のプロセスに参加して、自分の腕をブラッシュアップしたかったなぁ。
姪っ子たちと携帯電話
ところで、面白かったのが同行した姪っ子3人。下は中学生、中は二十歳、上は大学卒社会人成りたて、という3人です。彼女たち、たとえばホーチミンシティの名前の由来も知りません。ホーチミン、誰それ?という感じです。街中の写真スポットであるホーチミンの銅像には全く興味を示しませんでした。一切、無視、です。その無視ぶりは、私にはむしろ天晴と思えるほど。いやいや、昭和世代の私はまいりましたですわ。
食事も、ローカルなレストランよりも、むしろマクドナルドのハンバーガーのほうが美味しかったようです。そして、改めて携帯電話へのアディクション(嗜癖)度の高さもよくわかりました。

考えてみると、彼女たちの年齢のころ、私はぼちぼちと一人旅をし始めているのです。けれども、その旅には必ず手元には本がありました。本なしの旅は今でも想像できません。その点では、彼女たちの携帯電話と、あのころの私の本、どちらも似たようなものかもしれません。
けれども、大きく違うのは、携帯電話で彼女たちは随時プノンペンの友人とメッセージを送りあっているという点です。携帯電話は彼女たちをけっして孤独にはしないのです。
読書では、遠くの友人と連絡を取り合うわけにはいきません。旅の途中、本を通して向き合うのは、ただただ自分自身です。それは孤独の始まりでもあったように思い出すのです。孤独は大切だよね。そして、孤独になれない姪っ子たち、それはそれで大変だなぁとも思いました。
通信革命は世界をとても便利にしてくれましたけれど、それは逃れようとしても、どこにも逃れることはもはやできないということでもあるのだなぁ。そして、彼女たちにとって、携帯電話を捨てることはもはやとても難しいのだなぁと改めて感じ入った数日でした。
さて、話変わって。
消えた?サックスフォン吹き・・・いえいえ、復活を祈ります
Sax N’ Art Jazz Clubという名前のジャズバーがホーチミンにあります。最初に行ったのはいつなのか思い出せないのですけれど、とにかくホーチミンに行けば必ず寄る、私のとっておきのお気に入りの場所です。例えば、カンボジアの友人ラタナックを同行した際に、始めての生ジャズ体験にラタナックが「いやぁ、ジャズっていいっすねぇ!!」と店を出て大興奮だったり、別の機会にフィリピンの友人ミカイが「あの人の声は好きじゃない」と私にとっては味ある高齢なジャズシンガーのことを評して私は猛烈にガッカリしたり、それからそれから……、とにかくけっして量は多くないですけれど、でも思い出がたっぷり詰まった場所なのです。
そのジャズバーに久しぶりに行けるのが、今回の10年ぶりホーチミンシティ観光の、私にとって最大のイベント予定でした。なんなら3晩とも通っちゃおうかな、なんて思っていたぐらいです。インターネットで調べれば、Sax N’ Art Jazz Clubは今も健在で、毎晩地元のジャズ奏者が熱く集っているはずでした。
けれども、たどり着いたそこは、無情にもシャッターが下りていたのです。降ろされたシャッターには何やらアナウンスの紙が貼ってありますけれど、ベトナム語で判読できません。もしかしたら、他の場所に移転したのかもしれない。
その紙切れを写真に撮り、戻った宿のスタッフに訳してもらったのです。けれども、「この店を売りに出している不動産屋の連絡先です」。
Sax N’ Art Jazz Club、この場所はTrần Mạnh Tuấnという名のサックスフォン吹きのお店です。当然、毎晩のように彼自身がステージに登ります。私がこのお店に魅かれたのも、彼の演奏があったから。極上なんですよ、彼の生演奏で過ごすホーチミンシティの夜ってのが。
その彼の本拠地、舞台が閉じてしまった。他の場所に移転したというわけでもなさそうだ。さて、Trần Mạnh Tuấnはどうしてしまったのか? ベトナム語でなら何か情報がつかめるかもしれない。インターネットで必死に調べてみると、見つかりました。そして、翻訳機能を使えばそれがサクサクと読めてしまう!ありがたい。
その記事によれば、Trầnは、2021年に脳卒中で倒れていたのです。死んでもおかしくない状況だったこともあったようです。けれども、新しい記事(2021年末)によれば、サックスを手に取り演奏を試みることができるまで回復しているとのこと。
残念なことに、2022年に入ってからの記事を見つけることはまだできていません。おそらく、彼の病、さらにはコロナ禍もあり、あの店は閉めることになったのでしょう。ベトナムの若いジャズ奏者たちにとっては、あの場所が無くなったことは大きな痛手に間違いない。それが残念でなりません。
プノンペンへの帰路につく日、最後に立ち寄った本屋の小さな小さなCD売り場の棚に、この10年の間に発売された彼のCD(つまり私は持っていなかった)を何枚か見つけることができたのです!!うん、今回はこれで良しとしよう。その際に、知らないベトナムジャズマンのCDも見つけました。よし、これも聞いてみることにしましょう。
そうそう。記事を探っていて、彼の娘さんも父親の影響を受けてサックスフォン奏者の道を歩みだしていることも知りました。彼のパートナーも、歌手として著名な方とのこと。リハビリテーションに励む彼と、その彼を囲む家族や仲間たちの写真も記事には張り付けてあります。その写真のTrầnは、舞台で見せていた人懐こそうな笑顔、そのままです。そうだね、彼は大丈夫だ。ぜひゆっくり回復してほしい。そして、いつの日か、彼の生サックスを聞ける機会があったら、俺、きっと泣いちゃうな。そんな機会を、Trần、俺はゆっくり待ってるよ。



















Trầnさんはサックスを吹いているときに脳卒中の発作を起こしたのかしらねえ? あの息を吹き込むような楽器は頭の血管にはリスクが大きいらしい。家人もオカリナを吹いているとき
脳動脈瘤破裂を起こし蜘蛛膜下出血で倒れたようです。水頭症にもなり駄目かと思いました。
元気になっていまでも懲りずにオカリナをやっているから不思議です。あまり自覚がないのかも・・・です。Trầnさんには早く戻ってほしいですね。後遺症はないですかね。サックスを吹けるほど元気になってほしいですね。
ホーチミン市の道路状況が悪いのではまして地方に行ったら知れていますよね。あれから何年経っているのでしょうかね? その人の時代が過ぎると何もかも変わりますね。風化って恐ろしい。バリアフリーの状況は東京の方がましなんですか・・・。
プーチンのウクライナ”戦争”は質(構造)も違い、酷いものですがベトナム戦争でのアメリカの人殺し犯罪も最悪だった。ナパーム弾、枯葉剤、・・・。韓国の例を見れば、日本国憲法がなければ日本もどうなったか。小生なんか最初にしょっ引かけれたかもしれない。思い出したくないほど日本の人心も荒れた。そして日本の今がある。