たまたまご縁のあった私自身の子どもへ、さらには甥っ子姪っ子さんたちへ、そしてその他多数の若い世代の人たちへ。2026年2月8日深夜、高市内閣が強く支持されたという投票結果を受けて。

10件のコメント

本当にとんでもないことになったものです。

匿名様

昨日の母との会話で

母「自衛隊の人数は足りないっていうことでしょ。憲法改正の先には、徴兵制になるんじゃないかね」
私「20年かな、徴兵制までかかるのは」
母「そんなにかからないんじゃない。10年ぐらいでなるんじゃない。
  でもまぁ、そのころには私はもういないから、私には関係ないけどね」
私「………」

さて、どうなるのでしょうね。心配です。

ムラヤマ

今日の授業は面白かったです。種を蒔くことしかできませんが、諦めません。

匿名様 コメントありがとうございます。ふふふ「授業」ですか。

少数者がどう自分の身を守ればいいか。大きな時代の流れのなかで、どう自分自身を守るためにあがけるか。身を置いている状況から、物理的に距離をとる、って、冷静になる客観的になるためにも、いい方法だと思うのです。とにかく、いったん外に出る。ひとつの選択肢として用意できていたほうがいいと、心底思っているのです。

諦めない、は当然ですよね。諦めるんだったら黙ってろ、と以前人から言われたことがあります。そうだよなぁと思った。ただ、逃げる=諦める、ではないはずです。「三十六計、逃げるが勝ち」という言葉もあります。いざってときは、まず逃げてから、それから考える。それでいいんじゃないかと思うのですよね。

ムラヤマ

Facebookから、高市早苗応援団グループがおすすめとのメールが届きました。SNS空間が金と権力の影響を強く受けていると感じます。カンボジアはタイと国境未画定地域で戦争状態、この状況でタイの「愛国的」政党の支持率が高くなっているようです。カンボジアはどうなんだろう?習近平と高市は、互いの軍拡を自らの軍拡路線を正当化する理由にしている。逆説的に言えば、高市自民の選挙勝利の一因は習近平強権中国の応援があったからかも。逃げずに、力を合わせて戦えば変えられる。いつでもどこでもそうだった。逆流は歴史にはつきものだが、人間は希望を持ちたいと思う存在だろう、だから逆流は一時のものだ。現在のスペイン・ポルトガルの状況、ハンガリーの状況、アメリカでさえ格差社会や強権に反対する社会的力(運動)が強まっているように見える。We shall overcome! 逃げずに戦えば、私たちは次の時代をひらくことができる。

有馬先生 読んでくださって、さらにコメントまで、どうもありがとうございます。

先の国境紛争についてちょっとだけ書きます。両国の軍事力は格段に差があります。当初カ国も相手国国内への砲撃を行いました。けれども、時間が経つにつれて、国際社会へ「カンボジアは平和を望んでいる」というメッセージ戦略でなんとかしのごうとした感じがします。おそらく、タ国がピンポイントで国境近くのカ国側の軍事施設を攻撃したのが、かなり効いたのだと想像します。タ国は、カ国の兵士を5百人程度殺戮したという報道をしました。それに対してカ国は、それはフェイクであるとアッピールした。けれども、停戦後も、カ国は自国の兵士の戦死者数を発表していません。カ国政府は、今年から(カンボジア的にはお正月は4月なので、つまり4月以降)18~30歳の男性を対象に徴兵制を導入すると発表しています。そのことも、兵士の死傷者数を発表しない一因があるのだろうと想像します。そして、そのような情報を発表せよという社会からの声は上がりません。というより、上げることはとても難しい。すぐに国家反逆罪に問われてしまうからです。先生のコメントには「タイの「愛国的」政党の支持率が高くなっている」とあります。カ国では、そういう《選択》の自由はありません。選挙はありますけれど、それは形骸化しています。つまり一党独裁で世襲制が完成しつつある。そういう国家です。その中に身を置いていると、いろいろと学ぶことは多いです。例えば、独裁はけしてトップダウンだけで成立するものではない。独裁に喝采を叫ぶひとたちはけして少なくありません。もちろん、喝采を叫ぶことの利点がたくさんあるわけですけれど。一方で喝采の輪にくわわらないのは、特に公務員(その最大多数集団が教師の皆さんです)には、不利益が多い。

今回の紛争で、カ国市民が学んだのは、たとえば戦闘機を持たなくちゃダメだ、ってことかもしれません。ちなみに、停戦後、両国の国境線の一部では、紛争前よりもカ国側に入ったところまでタ国が占拠しています。これはやっぱりタ側、やりすぎていると感じます。武力によって国境線を変更したと言われても仕方がない。タ国政府側からすれば、紛争に勝利して正しい境界線に戻したということなのかもしれませんけれど。でも、これでは「力は正義」です。当然、カ側は「力がもっと欲しい」となってしまう。溜息です。

先生は「逃げずに戦えば」と書いてくださいました。けれども、カ国の状況では、逃げずに戦えば、あっという間に拘束されます。裁判官が与党党員であることをまったく隠さない国です。公平な裁判など期待するのも無理です。そんな与党と戦っているのは、海外に逃げた人たちです。状況によっては、逃げて戦う、という選択もいくらでもあると私は感じています。
さらに書けば、戦わないという選択を否定するのもよくないかもしれません。人がもっているパワーやエネルギーは、けして公平に分配されているわけではありません。そして戦うことは、それなりに「力」が必要です。皆に「戦え」と求めても、それに応えられない人はいる。そんな人でも、せめて逃げて欲しい。戦わなくていいから、逃げて欲しい。そんなふうにも思うのです。とにかく、「殺し」「殺される」その前面に立たないために知恵を絞る。それも市井の人たちの自らを守る戦略だろうと思っています。

村山哲也

「力」を持たない人はいないのでは?何を求めて何と戦うか、それが大切だけれど。誰でも戦う力を持っている。世界人権憲章(宣言)や国際人権規約、それに国連憲章を実体化するために戦う必要があると考えます(日本で日本国憲法を実体化することと重なることだけれども)。強権国家が広く存在する中で、内心的な不服従も含めて多様な方法で戦うことはできるのでは?それは、この世の主人として主体性を持って(主権者として)生きようとする人にとっては生きることの意義でもあると思います。逃げることによっては力を合わせることもできないし、現状を打開することもできないのでは?
     有馬泰紘

うーむ、有馬先生、なるほど。
確かに、他者に対して「力」の有る無しを語るのは不遜でした。「誰でも戦う力を持っている」。確かにそうなのかな。すごく健康的な考え方で、反論する部分ではないようにも思います。(ちょっとだけ、健常者社会的な考え方だなぁと思って、ちょっとひるんでしまうような気持ちが、私の中にはあるんです)

さて、先生が書かれているように「多様な方法で戦う」ことが可能として、とすれば「避難して、そこで戦う」という戦略も可ではないでしょうか。私が「逃げる」と書いたのがまずいのだろうな。避難するなら、どうでしょう。
状況に巻き込まれないように、物理的に距離をとるという行為を「避難」と表現したら。それでもまずいでしょうか? 避難したら、力を合わせることができない?現状を打開することもできない? 
このあたりになると、具体的な状況をもとに議論しないと、空中戦になっちゃいそうですね。
たとえば、私が今いる場所から比較すれば、日本はまだ言論の自由があり、その場で戦うことはいくらでも可能でしょう。でも、実際に徴兵制が引かれるような状況がうまれたら? どうしたってまず若い世代の人たちが強制的に「殺し」「殺される」状況に送り込まれてしまう。徴兵=戦場ではない。徴兵というのも、戦争をストップする抑止力になるという考え方をする人たちも、今や少なからずなのでしょうけれど。でも、私はそうは考えていない。そこは先生もそうでしょう。

そういう状況が生まれてから避難を検討するのは、もしかしたら遅すぎないかということを私は心配しています。戦うのはいいけれど、実際こうやって3分の2を高市首相を頂く政党は単独で確保した。今後4年間は衆院選挙はないでしょう。日本社会が改憲やむなし、に流れていく。それを「戦う人たち」は阻止しようとしているわけだけれど、実を結ばない現状はある。
だから、避難する準備も大事だと思ったりはするのです。それを逃げると表現したら、ダメなのかなぁ。正義に殉ずることを他者に求めてしまうのは、どこか非人間的な感じが私はしているのだと思う。大きな流れというのは本当に恐ろしい。危機的な状況が起こってしまったら、そこからできるだけまず距離をとる、戦うのはその後でもいい、そんなふうにも思っているのです。そして、避難するならその準備は早めにね、と思っている。それもダメ?

村山哲也

他の人の人権を侵さない限り、どのように道を選ぶか、何を望むか、何を大切に思うか、それを自由に決めることは人権の一部(自己決定権)ですね。だから、逃げるも避難も自由でしょう。それを他の人に勧めるのも自由。しかし、「日本社会が改憲やむなし、に流れていく。それを「戦う人たち」は阻止しようとしているわけだけれど、実を結ばない現状はある。」には異議あり。どれほどの時間を要するかはわからないけれど、日本社会が存続し続けるとすれば必ず実を結ぶことでしょう。人権・平和・民主主義の日本国憲法であるのに、改憲をリードする人やそれに賛同する人が多く(過半数という意味ではない)存在するのはなぜか?詳しい説明は省くけれど、一番根源にあるのは、私的利益追求のエネルギーを駆動力とする資本主義社会が様々な格差を生みそれを広げる社会だからではないだろうか。そのような社会から公的利益(公益=一般市民の利益)の追求・実現を駆動力とし且つ目的とする社会に移行することを望む人たちは、やがて多数派になるのでは?日本だけの問題ではなく世界全体の問題でもあるし、私としては一日でも早く新しい次の時代を開きたいものです。ブログへのコメントとしては不適切だったかもしれませんね。これで終わります。

有馬先生 その後の返信が遅くなりまして失礼しました。
私が信を置く物理学者の藤永茂さんは、以前ご自身のブログで「パレスチナに民族共存の一国家が建設できないのであれば、人類が滅ぶのは避けられないことであろう」という主旨のことを書かれました。
その段で言えば、「人権・平和・民主主義が尊重されない世界を作り上げられないのであれば、ホモサピエンスがやがてそう遠くない未来に衰退するのは避けられない」ということのように私は考えています。
それは日本に限らず、この地球上すべての場所において・・・・。80億もいたら、なかなか難しいのかな。世界中には今日も蹂躙される人たちが多数いる。ミャンマーも、ウクライナも、もちろんパレスチナのガザもヨルダン川西岸も、
さらにイエメン、スーダン、南スーダン、コンゴ共和国東部、あるいはシリアやイランや、さらにはクルドや、アメリカ合州国や、ベネズエラも、ハイチも、エトセトラエトセトラ。
それでも、いったいどうすれば一日も早く新しい次の時代が開けるのか……なかなか現実的な展望が見えなくて、希望が持てなくて、とても辛い気持ちになるわけです。
まぁ、私もそう遠くない年月で消えていくわけですから、あとは任せるしかないのですけれど。
「日本社会が存続しつづけるとすれば必ず実を結ぶことでしょう」という先生の力強いお言葉には、いつも頭が下がります。
いつも勇気づけてくださってありがとうございます。 遅ればせながら、返信まで。 村山哲也

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