援助におけるハラスメントの脅威(今回は、真面目です)

日本でいう 中秋の名月 2021年9月 プノンペンにて (本文とは関係ありません)

国連機関関係者による性的暴力

 世界保健機関、通称WHO、は、国際連合の数ある専門機関のひとつだ。健康を人間の基本的人権のひとつと捉え、世界中の“私たち”の健康を守るために、広範囲な活動を行っている。昨年今年と続いている新型コロナ禍によって、WHOの名を聞く機会はとても増えている。そのWHOが、アフリカのコンゴ共和国でのエボラ出血熱の対応で、2018年以降だけで支援に係わった83名が、援助する側という立場を利用して性的暴力を行っていたという調査報告をした。WHO支援活動の83人が性的暴行関与 働き口紹介の「見返り」 | 毎日新聞 (mainichi.jp) 

 加害者の大半はWHOが間接的に雇用したコンゴの人たちだったようだけれど、中にはWHOが直接雇用した外国人も含まれているという。もしかしたら、WHOスタッフも含まれているのかもしれない。被害者は、もちろん地元のコンゴの人たちだ。その多くは(もしかしたらすべてが)女性に違いない。
 報道によれば、「支援活動での働き口を紹介するなどと持ち掛けて、見返りに性的交渉を要求していた。9件は強姦(ごうかん)に相当するという。被害者29人が妊娠し、中絶を強いられた例もあった。」とのことだ。加害者の大半は「相手との合意があった」と主張しているらしい。

 このように国際援助では、支援する側による支援される側への性的暴力の事例はけして少なくない。
 少し古い記事だけれど、2016年CNNの報道では「国連は、世界各地で展開する計10の国連平和維持活動(PKO)任務で要員による未成年者らへの性的暴力が疑われる事例が昨年、計69件あったとの報告書を公表した」とあるCNN.co.jp : 国連PKO要員の性的暴力は昨年69件、最悪は中央アフリカ – (1/2)。 

 国際組織法の研究者である尋木真也(たずのき しんや)による『国連平和維持活動(PKO)要員による性的搾取および虐待の規制』(早稲田大学社会安全政策研究所紀要第8号 2016年8月 ShakaiAnzenSeisakuKenkyujoKiyo_08_Tazunoki.pdf (waseda.jp) ) という論説をたまたま見つけた。その中の資料(表 2 2015 年の性的搾取申立内訳)によれば、国際平和維持軍に限らず、2015年だけでも国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連開発計画(UNDP)、国連プロジェクトサービス機関(UNOPS)、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、国連ウィメン(UN Women)、国連世界食料計画(WFP)の国連職員が性的搾取・性的虐待の加害者であった。この資料では、申立数は全体で99件(うち、平和維持軍関連が69件)であったとされている。ぼくはこの数字を大きいとも小さいとも判断することができない。国連という世界有数の大きな援助機関の中で、年に100件程度というのはけして大きな数字ではないとも言えるのかもしれないし、それでも国際平和という理想のための組織の職員による性的ハラスメントを語る際に、それの夥多を語ることにはたいした意味はないと思ったりもする。

 さらには次のような事例もある。
 1994年にルワンダで起こった大虐殺を経験し、その後著作を記したひとりにイマキュレーイリガギザという女性がいる。当時のルワンダの個人証明証にあった民族欄において殺される側(ツチ)とされていたイマキュレーは、1994年には大学生だった。知り合いの牧師(フツ)の家の小さなトイレに他の5人の女性とともに匿われることで、彼女は幸運にも大虐殺を生き延びることができた。 しかし、この虐殺で彼女は両親と兄弟を亡くしている。その後彼女はルワンダの首都キガリの国連事務所で仕事を得ている。彼女の著書『ゆるしへの道』(スティーヴ・アーウィンとの共著、原田葉子訳 女子パウロ会 2013年)では、このとき、彼女が国連事務所の上司(国連職員、出身地は明確には書かれていない)から「愛人にならないか」と誘われるエピソードが辛辣に語られている。上司の愛人になることは、イマキュレーにとって仕事を斡旋してもらえる、あるいは大学院進学の便宜を図ってもらえるという「機会の向上」のチャンスでもあった。そして、「愛人にならないか?」と誘った側に罪の意識は少なかったように思われる。そして、その上司の申し出を断ったイマキュレーには、仕事の上での嫌がらせもあったことが書かれている。もちろん、彼女を窮地から助けようとする人たちもいたのだけれど。
 本の中ではハラスメントを受けた側のイマキュレーの声だけが書かれていて、上司の“弁論”はない。想像すれば、上司にすれば「同意があった」という種類の釈明があるのだろう、おそらくね。
 イマキュレーが受けたようなハラスメントは、国際援助機関による援助の中ではけして珍しいことではないのだと、ぼくは想像している。国連は、ものすごい学歴社会で、階級社会だ。そんな権力闘争の中で、特権意識も肥大させてしまう勘違いの人は、きっといるのだ。

警察部署を持たない国際連合関係機関

 以前、国連関連の機関で正規職員を務めたことのある人は、国連関連機関の問題として「国連内には警察機関がない」ことをまっさきに上げていた。つまり、国連内での犯罪を取り締まる専門部所がないというのだ。その結果、例えば予算執行上の不正や汚職、さまざまなハラスメントに対して、いわゆる社会常識としての取り締まりがなされていないということだった。
 その人が国連関連機関に務めていたのはすでに20年ほど前のことだから、その後、どのように国連内部での犯罪行為が取り締まられるようになったのか、ぼく自身は寡聞にしてよく知らない。

 先に紹介した 尋木 の論説によれば、国連平和維持軍の性的暴力加害者への取り締まりは、年々厳しくなっているとのことだ。彼の論説には次の文章もある。

「 性的搾取の実行者の処分については,年々厳格化してきている。以前は,PKO 要員の解雇や送還は行われても,責任は問われないとの認識が広がっていたが,最近では行政罰のみならず刑事罰も科されている。2015年には,暫定措置としての給与差止めや送還,兵舎内業務への限定等の処分のほか,コソボでの性的虐待の事例については禁固 5 年が言い渡されている。また,不処罰を防止する対策として,いわゆる PKO要員の子(peacekeeper babies)の事例に対応するための要員の DNA 採取
の促進や,証拠の確保や証人のアクセスのために派遣国に現地で軍法会議を設置する要請なども行われている」

 ぼくの体験的感覚からしても、国連関連機関に限らず、国際援助に係る人たちは概ね“いい人”たちだ。そして、これまで書いてきたような性的犯罪を減らそうという意志は、実際に多くの現場で機能していて、少しずつでも効果を上げてはいるのだとは想像する。

援助という、強者と弱者が出会う場所
そこで起こり易い、勘違い、誤解、そしてハラスメント
そして自己欺瞞……

 援助において、援助する側、援助される側の立場の違いを超えて、恋愛感情が生まれることはけして珍しいことではない。ときに厳しい環境の中での出会いは、往々にして“勘違い”や“異常心理”が生み出す恋愛感情モドキにつながり易いという面が実際にある。

 そもそも、援助という行為は、好意や善意、同情や共感という人間的な思いが背景にあるものだ。単にビジネスライクにその仕事を志すというよりは、豊かである者や社会的に恵まれた者はその幸運に釣り合うだけの社会的義務があるというノーブレスオブリージュ(仏語)という価値観を背景にするにせよ、あるいは宗教的義務感を背景にするにせよ、あるいは出世に対する強い意志にせよ(日本のエリートの行き着く先が大蔵省や外務省といった上級公務員だったり、大手企業への就職だったりするのと同様に、大きな国際援助機関は途上国のエリートにとっては“最上級”の就職先だ)、悪意とは別ベクトルの思いがあるからこそ、援助に関わる人たちは、その仕事に関わったはずなのだ。一方で、好意にしろ善意にしろ、支援される側にしてみれば、そのような思いに対して飢餓状況を持つ者が多い。そんな両者が出会う援助の第一線では、どうしたって、誤解は生まれやすい。あるいは、弱者の弱み(勘違い)に強者がつけ込むような状況が発生しやすいんだ。残念ながら、ね。

 本来、云うまでもなく、援助する側と援助される側の関係は、強者と弱者だ。強者と弱者との間の恋愛は、うまくいけばピュア(純粋)かもしれないけれど、どうしたってフェア(平等)にはなり難い。だから強者と弱者との間に生まれた恋愛感情は、よっぽど気をつけて世話をしないと、アンフェア(不公平)な関係を温存してしまう。それでも、恋愛が成立していれば、まだ救いがある。
 恋愛感情すら単なる一方的な誤解であれば、それはピュアでもフェアでもなく、そもそも(往々にして強者に都合のいい)誤解なのだ。しかも、それはほとんどが恣意的な誤解なのだろう。「都合よく誤解することで、自分の悪意を隠蔽する」という種類の無意識防衛がもたらす誤解だ。

 そして、さらにジェンダーという根深い問題がからむ。国連機関職員による性的暴力のすべてが、男性による女性に対する性暴力なのかどうかは、判らない。ただ、大多数がそうなのは確実だろう。特に、妊娠がからむ性的ハラスメントでは、女性が被害者であることは疑いない。

 20世紀から21世紀という時代に生まれ、家庭や学校での教育を受け、生まれた社会からの影響を大きく受けている私たちにとって、(その社会がどこであれ、多くの場合に)男尊女卑的な価値観は油断すればすぐに芽を出すのだと思っていていい。そして、それは強者と弱者との関係性の中では、とくに恋愛に類する感情の中では、それが個人的な関係であるだけ、そんなジェンダーへの無理解は隠蔽化されやすく、ますます油断大敵なのだ。

 ちなみに、ぼくも「援助する側」として関わるプロジェクトの中で、「援助される側」である今の妻と出会っている。援助する側・される側といっても、プロジェクトではぼくのような援助する側の専門家あるいはコンサルタントと被援助国側のスタッフとは、協力関係にあるのであって、けして「救い救われる関係」にあるわけではないケースがほとんどだ。それでも、援助する側は、援助される側に、たとえば仕事なり追加収入なり留学なりの機会を提供する側だ。だから、やっぱりはっきりと強者なんだ。だから、もちろん、親密な関係になることがハラスメントに繋がらないように気をつけなければいけないという“警戒心”をぼくは持っていたつもりだ。それでも、他人から見れば、おそらく危ない橋を渡ったのだろう。そういう危険性からはできるだけ距離を取るのが、大人の分別というものだとぼくも思う。その点、ぼくは「恋愛感情」にだらしがなく、そういう情緒的な関係に弱すぎる面があるのだと自己評価している。きっと、現地社会や現地の人たちとの親交に積極的なタイプが陥りやすいマイナスな面だ。つまり、やれやれ、まったくもってハラスメントは他人事ではないのです。一歩間違えば、ぼくも偽善的な誤解による加害者になりえた(なりえる)立場なのです。

 援助に関わることを仕事とすることを目指している人たち、あるいはすでにそれで糊口をしのいでいる人たちにとって、性的なことに関わらずハラスメントを与える危険性には、自覚的であって自覚的過ぎるといういうことはない。だって、援助するというのは、(何度も書くけれど)どうしたって強者の行為だからだ。貧しい人、不幸な人、虐げられた人たちへの自分の善意や正義感を大事にする感覚はとても大切だ。けれども、善意や正義感に甘える感覚を、人は持ちやすいものなんじゃないでしょうか。だって、そっちのほうが心地良いじゃないですか。心地好いほうに人は流れる。
 「長期政権は必ず腐敗する」に並んで、まったくもってそうだなぁと思うのが「人は楽ちんに流れる」。ま、多くの場合は、ぼくが、あるいはあなたが、楽ちんなほうに流れても、それほど困る人はいないのです。けれど、ぼくやあなたが強者だとすれば、強者の楽チンは、危ないよ。強者の楽ちんは自分自身が溺れやすいし、さらには弱者を巻き込みやすいもんだから。

 そんなことを、やっぱり考えてしまう「WHOでの性的暴力」の調査報告の報道なのであります。
 つまりね、援助業界だけが、理想的社会の場であるはずはないのです。現実社会に不公正が存在するのなら、たとえ援助という一見「善」的組織であっても、様々な不正から自由であるはずはない。
 援助のという、ともすれば社会的に「善」とされやすい場で、隠蔽や自己欺瞞からどれだけしっかりと距離を取れるのか。それは国連関連機関や開発銀行のような大手だけの問題ではありません。問題が存在したときにそれを開示するという点では、大きな機関はまだやるべきことをやれる傾向がある(はっきりとした対応を求められる)とぼくは感じています。例えば、内部の恥をさらす今回のWHOの報告のように。そして小さなNGOなどの援助機関こそが、(ハラスメントに限らず)問題が起こったときの隠蔽などは破廉恥になりやすい。小さい組織ほど、万が一問題が起こったときに、関係者の自己弁護の欺瞞は深まりやすい傾向があるんじゃないかな。実際、なにやら怪しい事例を知らないわけでもない。
 さて、自分が係わっているプロジェクトなりプログラムなりが、そんな万が一の不正に対して、日頃からどれくらい対処する準備が自覚的にできているのか。恥ともいえる事象が起こったときの、問題開示の覚悟は常日頃からありや? そんな自分に不利なことでもオープンにできる健康健全な精神をちゃんと涵養しているか?
 社会正義を維持するとことはけして簡単ではないということを、特に若い人たちには伝えたいと思うのです。そして、簡単ではないから、回避してもいいということでも、やっぱりないということを。疑うのは、まず自分から、ってのは、言うのは簡単、でも実行するのは勇気がいることだと知ることからやっぱり始めないとと、改めて褌(ふんどし)の紐を締め直さなくちゃなぁと、ぼくも思うのです。

2件のコメント

搾取、被害は援助の現場に限らず、社会のいたるところにありますね。立場や関係性、性差によって、声を上げたことで更に窮することも。人間の尊厳を簡単に踏みにじってしまえる人にも大切な者がいて、大切にされている日常がある。罪を憎んで人を憎まず…簡単じゃないなぁと思いますね。

Kei様 コメントありがとうございます。
社会のいたるところにある搾取や性的嫌がらせ、暴力。それに反対の声を上げれば、そのことで窮することもある。どうしたって、弱者が萎縮するような構造がありそうですよね。
一方で、「悪い人」が良き母、良き父、良き友人、良き隣人であったりするのも、事実の一面です。
世の中、一筋縄にはいかないってことですよね。「罪を憎んで人を憎まず」の精神は、難しいけど、やはり後生には伝えていきたいものだとは思います。「人に後ろ指を指さされてもいいから、自らの指で人に後ろ指を指さないこと」と、自分に言い聞かせたりしています。

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