「支援者の価値の押し付けはダメなのか」という主旨のブログ投稿を読んで真摯なコメントをくださった(多分若い)皆さま方へ お返事します。

ワレモコウの花 小野久先生撮影

「あのブログ記事を国際教育開発論の授業の中で教材として使いたい」

海外開発支援での「価値観の押しつけ」はダメ? 無色透明はありえないという話。(追記込みの再掲) – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)

 上記は当ブログで今年(2023)4月2日に投稿したものです。この投稿は、2021年2月9日にやはり当ブログに投稿したものをちょっとだけ書き直して再掲載したものです。

 カンボジアがらみで知り合った友人である荻巣崇世さんから「あのブログ記事を国際教育開発論の授業の中で教材として使いたい」という連絡をいただいたのが2021年5月でした。ですから、今年で、私の教材を使ってくれた3年目ということになりました。あまり古い日付のブログを読んでいただくのも恐縮だったものですから、メンテナンスして再掲載したというわけです。
 荻巣先生の授業を受けた学生さんからは、毎年、真摯なコメントをいただき、それに対して私のブログの中で、簡単なお返事をしたためるのも今回で3回目ということです。こういう機会を作っていただいて、荻巣さん、本当にありがとう。

 今年も6月に入って、学生さんたちが投稿を読んだ「反応」抜粋を送ってもらっていました。お返事をしないまま、あらま、もう3か月も経っちゃった。大変失礼しました。そろそろ長月(9月の和名)となりますね。きっとぼちぼち学生さんたちの気分も、夏休みモードから後期モードに切り替わっていくころではないかと想像します。

 荻巣先生は、21名のコメント抜粋を送ってくれました。授業に参加した学生さんはおそらくもっと多いのでしょう。皆さんの代表選手のコメントが届いた、そしてその中から、こちらの勝手で感応したことを返すこととします。

支援する側の矜持と喜び

 私が書いた「支援する側も、支援される側も、どっちの人生も大事でいいじゃない?」「(支援される側だけではなく)支援する側も主である」「支援する側もされる側も楽しんで良い」「支援される側、支援する側、両者に歓びがなければプロジェクトの存在意義はない」という考え方には、多くの好意的なコメントをいただきました。
 私の提示した視点が、皆様にとって少しでも新しいベクトルになっていたとしたら、それはとても光栄で、嬉しいことです。

 以下、蛇足ではありますが。

 私は「支援される側も支援する側も、お互いがハッピーで」みたいなことも書いています。しかししかし、やはり当然ながら、優先されなければいけないのは「支援される側のハッピー」です。そして、最悪なのが「支援する側のみがハッピー」であることは、言うまでもありません。
 そして、「支援される側のハッピー」があるからこそ、ようやく「支援する側」も少しハッピーのお裾分けを得ることができる。むろん、そこに支援する側の矜持喜びがあります。皆さんの真摯なコメントを読んでいると、もちろん皆さん、そのことはすでにまだ実感できていないとしても、頭では理解できているのがよくわかります。その点では心配はない。

 さて、もし皆さんが職業として「支援(国内・国外問わず)」を食い扶持とすることを将来の進路として想定しているとして、ですよ。問題は、仕事として支援を行う際に、以上ぐだぐだと書いている「誰のハッピー問題」が簡単には処理できなことがあり得るだろうということはやっぱりお伝えしておこうと思いました。

 私は以前日本国の外務省スタッフ、あるいはJICAスタッフからも、「ODAは日本の国益にかなうものでなければならない」という主旨のことを告げられたことがあります。また、特に評価の際に「血税を払っている日本国民への報告義務」というような言い方をされたこともあります。まぁ、スポンサーのお言葉ですから、私は神妙な顔して聞いていたわけです。

 けれどもね。

組織の一としてかかわる支援で生まれる、“しがらみ”

 私はODAプロジェクトに、その度その度に契約してかかわってきました。そして、私がその仕事をするモチベーションは、「日本の国益」「血税の正しい使い方」とはまったく関係ないところにありました。その点では、私のマインドは、どちらかと言えばノンガバメント、アナーキー的です。それでもODAの仕事をし続けたのは、たまたまのご縁でしたし、自分のモチベーションを果たす機会をどう得るかという戦略の問題でした。

 もちろんODAに限らず、スポンサーの意向は大切ではあります。そして、自分のやってきたことが「国益に反した」り、「血税を無駄遣いした」つもりもありません。

 ただ、私自身は国益のために働いてきたわけではない。血税への“無駄”な特別意識もない。やはり一番大事なことは、支援される側にとって意味があるかどうか、だったのです。いくつかの選択肢があったときの判断根拠は、すべて「支援される側にとって意味があるか」で、国益?血税?、知らんがな、でした。もちろんダイレクトにそういうことをスポンサー側にお伝えしたりはしません。けれど、まぁ、なんとなく伝わっていたものもあっただろうとは想像します。ま、そこは大人の関係で、ということです。

 あくまで、スポンサーは私からプロジェクトの遂行に必要な技術の提供を得る。私は私で、自分の目指す教育支援の実践の機会を得る。ギブアンドテイクの関係だと理解してきたし、今もそう考えています。これからもそうでしょう。

 だから、おそらく組織に所属する働き方から可能なだけ距離を置く働き方を私自身は無意識に心がけて、選択してきたのです。ギブアンドテイクがわかりやすい状況に身を置くように心がけてきたという意味です。

 しかし、誰もがそういう働き方が望ましいわけではないと思う。組織に身をおいてこそ達成できることは、確実にあります。特に大きなことは、なかなか個人では難しい。大きな組織には大きな組織なりの、存在意義も、大きな可能性もあります(もちろん、大きな社会的責任も)。
 (さらに、私は自分をフリーランスの身に置くことを優先することで、いわゆる家庭への責任というところからもできるだけ距離を置くようにしてきました。その結果、心ならずもでしたけれど、他者を傷つけたり不幸にしたりもしています。けして誉められた人生でもありません)

 一方で、組織の中ではおそらく自分の意に沿わないことにエネルギーを使わなければいけないことがある。当然です。世の中、そんなに甘くない。損して得とれ。これから皆さんはそういう場面に何度も出くわすはずです。そして、その中には一見「支援する側のほうがむしろハッピー」という支援もあるかもしれない。

 さて、そこをどう踏ん張るか。私なら、百面相になれ、何枚もの舌を持て、とでもアドバイスする場面です。

 実際、援助支援協力というのは、もはやひとつの大産業です。産業ということは、その中で、それぞれの組織は自己の成長と維持を目指します。わかりやすく言えば、予算縮小よりは、予算拡大を目指したりするわけです。援助は拡大し、未来永劫続くのです。
 つまり、援助は援助業界を維持するために実施されているという側面があるということです。この傾向は21世紀になってますます強固になっていくように感じます。そして、援助にかかわるためには組織に所属しないと入り込む隙間がない、という状況が生まれています。
 私の時代は、個人でもODAのニッチな部分には参入できた。今は、それも難しくなっています。特に教育セクターではそうです。となれば、どうしたって組織の一員として援助支援協力にかかわる可能性が大きい。それは、たとえNGO・NPOでもまったく同じことです。支援者(寄付者)の方に顔が向きやすいのは、ODAの血税以上の圧がNGO/NPOにはあることが多い様にも見受けます。

 さらには、個人のプロジェクトでも、クラウドファンディングで資金を集めれば状況は同じです。多くのクラウドファンディングで、支援者は、さて支援される側と寄付してくれた側、どちらに顔が向くでしょう??? ついつい資金提供してくれた人たち(つまりお客さん)へのサービスが強く意図された支援に変質してく傾向はないだろうか???

 組織の中の一員としての限界や、支援者からお金を集めて実施する援助が多い状況の中で、私が「支援者のハッピー」と書くのは、やはり乱暴なところがあるのは認めざるを得ないのです。そして、「支援者のハッピー」は油断していると、支援者の幸福感のみを増幅するマスターベーション支援や、被支援者と支援者の共依存関係を温存する。

 共依存になるとは、被支援者も支援者もお互いがお互いを必要として、離れられなくなっていくということです。共依存は、生きるうえでときに必要な関係でもある。共依存性のまったくない恋人関係なんて、ちょっと味気ないでしょう? でも、やっぱり程度問題なんです。ひどい共依存は、相手も自分も蝕む。そういうのは、避けるべき関係だと思います。
 私の「支援者もハッピーに」理論は、油断して使うと、特に小さな個人的な援助支援で起こりやすい共依存すらも、擁護しかねない。

 そこは、やはり返信として書くべきだと考えました。すべて、表もあれば、裏もある。それがダメということではなく、避けられない。だからリタラシー能力を上げましょう、自己批判・批評能力、俯瞰力(鳥瞰力)、メタ認知力を上げましょう、ということです。自己肯定は大事です。でも、なにごとも過ぎたるは及ばざるがごとし、でもありますね、やっぱり。

自分を殺して(支援される側に)向き合うなら、やめなさい、他の生き方があるんじゃない?

 皆さんからのコメントの中に以下の一文がありました。

「「支援する側も主」は、自分にとって新しくて大事な考えだと思います。でも、同時に難しいことであるとも思いました

 はい、難しいと思ってくれたあなたはいいアンテナを持っている。

 その通り、難しいと私も思う。油断は大敵。でも、目指していい、という感じです。そして、単に被支援者の幸せだけに貢献するプロジェクトがあるとしたら、それは私にはちょっと宗教っぽくて、偽善的で、ついていけないとも思うだろうと予感するのです。

 自分を殺して向き合うなら、やめなさい、と思う。他の生き方があるんじゃない、と思う。

 だから、リスクを抱えつつもやっぱり再度「支援する側もされる側も楽しんで良い」と何度でも書く。

「自分は今まで支援する側の価値観を押し付けることを避けるためなら自分の今までの価値観と決別しなければ、くらいに考えていた。だが支援する以上多少の押し付けは避けられず、むしろ支援する側もされる側もお互いが関わることによって生じる変化を受け入れその結果がプラスになるようにすべきだと言う考えは新鮮だった。だがどの程度の押し付けならプラスの変化と捉えられるのかなど曖昧な部分も多いと感じる

 というコメントもいただきました。

 うん、私の書いていることを突き詰めていけば、そりゃ曖昧なところは多々ある。この場では、もしあなたが直面したら、その曖昧さと格闘してほしい、と書いておきます。というか、そうとしか書けない。

 あなたが支援当事者になるとすれば、つまりあなた自身が見つけることになる曖昧さを直視し、格闘して、そのときそのときで、とにかく選択する、ということだから(選択=正解、ではないかもしれない。でも、ベターを目指していくしかないのよ)。とにかく選択するしかないのです。だから試行錯誤(トライアンドエラー)は大事。

 同じような状況でも、選択は過去と今と未来とで変わるかもしれません。当たり前です。同じ状況なんか絶対にないからです。そしてあなたも歳を重ね変化していく。それが生きるということですから。

「どの程度の押し付けならブラスの変化と捉えられるのか」を判断するのは、まずは一次的にはその支援にかかわる被支援者と支援者です。だから、「これならプラスの変化と考えられます」なんて物差しを、このブログや、荻巣先生の授業の中できちんと伝えられるはずはないし、そんな物差しを机の上で作っちゃいけないのだと私は考えます。事例が変われば、使う物差しも変わるのです。どこでもいつでも物差しはひとつという潔癖さは、かっこいいですけれど、むしろ問題をこじらせるもとではないかしら。強者が持ち込んだ物差しで、弱者は常に泣かされてきているのが歴史から学ぶということではないでしょうか。
 だから、今は、曖昧どまり、にしておきましょうや。

 最後に素晴らしいと涙したコメントを紹介します。

 「私が目指したいものやこんな世界にしたいなという純粋な気持ちは持っていてもいいのではないかと感じた」

 あぁ、よいなぁ。

 うん、私もそう思ってる。人々の幸せが維持できるような、広がるような、そんな世界にしたいです。そして、自分が馬鹿な裸の王様/独裁者ではないかとも、いつも疑っています。未だに、私自身が裸の王様であることを知ることがあります。冷や汗たらたらです。

 あなたの純粋な気持ちが、これから多くの経験と多くの人々の力をかりて、柳の枝のようにしなやかに、さらにさらにブラッシュアップされていくことを切に期待しています。

 それじゃ、皆様の益々の健闘を祈ります。

 しっかり読んでくれてありがとう。もしいつかどこかですれ違ったら、声をかけて下さい。そんなことがあることを楽しみにしております。

 ではでは、また。

 村山哲也

1件のコメント

日本の一地方で地域振興の支援をしていますが、支援される側のプラスって誰のプラス?と考えることもあります。1個人、ある集団、団体、団体のどのクラス、地方公共団体······。ある人のリーダーシップで押し切って、結果、みんなから感謝されることもある。それぞれ対等なんだけど、先見性を持って、リーダーシップなり、ファシリテーションシップなりを発揮することが期待される。

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