前回の連載第24回で、ひとまず『カンボジアの胡椒と、その周辺の物語』は大団円を迎えたということで、あと数回、番外編ということでお送りします。(前回の大団円回は以下から飛べます)。今回は、太平洋戦争中に日本で起こったというアンコールワットブームについて。
胡椒とは直接関係はないのだけれど、カンボジアのことをあれこれ調べていて、面白いことを発見した。それは、1941年(昭和16年)頃に、日本でカンボジアブーム、アンコールワットブームが起こったというのだ。昭和16年というのは太平洋戦争で日米が開戦したのがその12月という、まさに戦争真っ只中の時代だ。その時のカンボジアはまだ仏領インドシナの一部で、つまりフランスが支配していた。しかし、このときのフランスとは、なんとヒトラーの傀儡政権のヴィシー政権なのだ。つまり、この当時、ふたつのフランスが存在していた。ひとつはドイツに占領された後のヴィシー政権。もうひとつは、自由フランスと呼ばれる反ヒトラーのド・ゴール将軍による亡命政権がロンドンを拠点にして、あった。
ドイツ、イタリアと三国同盟を日本が結んだのはその前年の1940年だった。つまり、ドイツ傀儡政権下の仏領インドシナは、日本政府にとっては間接的なお友だちである。しかし、実際にはフランスは直前までドイツと戦争をしていた敵国であった。そういう、日本にとって、とても中途半端な立ち位置としてあったのが仏領インドシナだった。また、当時の仏領インドシナの植民地政府は、ナチスドイツのコントロール下にあったヴィシー政権と近い人、距離をとって反ナチスの亡命政権に近い人、が入り混じって、内部での勢力争いが起こっていた。
結局、日本は1940年から41年にかけて、強引に、インドシナ内にも軍を進める(仏印進駐と呼ばれている)。この仏印進駐が米国政府の日本への経済制裁を硬化させたことが、日本の米国への開戦(真珠湾攻撃)につながった。その後も、仏領インドシナは、ふたつの軍隊(日本軍とフランス軍)が共存する不思議な領地としてあり続けた。
やがてヨーロッパではドイツ軍が劣勢になり、フランスのヴィシー傀儡政権の力が弱まっていくと、ヨーロッパから遠く離れた仏領インドシナは、本国からはまったく独立した存在となる。中央政府の統制を受けずに、自力で地域経済を回さなければならなくなっていくのだ。仏領インドシナのフランス軍の独自な動きを警戒して、日本は1945(昭和20)年3月に「仏印処理」と呼ばれるフランス軍への軍事制圧を行い、フランス軍を武装放棄させることに成功する。この時、カンボジア国内でも日本軍とフランス軍の間で、単発的な戦闘があったようだ。今でもこの日仏の戦闘を覚えているカンボジアの人もいると聞く。そして仏領インドシナは一時的に日本軍による占領を受けることになる。この時、日本は急いでベトナム、カンボジア、ラオスをそれぞれ独立させた。カンボジアでは、1945年3月13日に、若きノロドム・シハヌークが国王として独立を宣言している(ちなみに、仏印処理の際、日本軍を信用できなかったシハヌークは、僧侶に変装して隠れたという逸話が残っている)。
そのような状況を理解した上で、以下、読んでみてください。
一九四二年(筆者注 昭和一七年)一一月の連合軍の巻き返しにより、ヨーロッパではパタン内閣のヴィシー政権が弱体化していくが、インドシナでは依然としてペタン支持のドゥクーが実権を握り続ける。抵抗する自由フランスのレジスタンス活動も活発する中、二つのフランスが分断されたまま混沌した状況を迎える。この政治的混乱の中で、日本は軍隊だけでなく、政治家や経済人、そして大学研究者、芸術家などの文化人を次々とインドシナへと送り込んだ。そして、短期間のうちに慌ただしくもインドシナ地域の政治、経済、文化あらゆる事象が日本に紹介され、研究されるようになったのである。この状況は一九四五年三月のいわゆる「仏印処理」によるインドシナの武力制圧を経て、日本の敗戦まで続く。(中略)
かくして、戦争のさなかの一九四一~四五年にアンコール遺跡が日本人に広く知られるようになり、アンコール遺跡ブームと形容してもよい状況が到来したのである。とりわけ、一九四一年夏の南部仏印進駐から、冬の米国への宣戦布告までの半年間は、インドシナから毎日のように新しいニュースが届けられ、一般紙を賑わせていた。『朝日新聞』は、八月八日~十日に「アンコールワットの遺跡を訪ふ」と題する特派員の特集記事を、また八月八日~一八日にはインドシナを訪れた知識人による「仏印を語る座談会」の様子を伝えている。(『オリエンタリスとの憂鬱』藤原貞朗 2008 めこん 408~410ページ)
なるほど。日本の領土拡大の機運や、新しい土地に対する興味を、当時の人たちは今以上に強く持っていただろう。おそらく、このときに始めて日本とカンボジア(まだ独立前だけれど)の関係が、日本側で一方的に始まった。アンコール遺跡についても、このときに多くの日本の人たちが知るようになった。
紙の不足や夜間の灯火統制があるなかで、日本の人たちがアンコールワットに関する記事を読みながら、カンボジアに思いを馳せていたと想像するのは、なかなか楽しいことではないですか。
日中・太平洋戦争が終結後、日本軍が去りフランス植民地統治が復活したインドシナ半島だったけれど、それは第一次インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)によって終焉し、カンボジアがフランスから完全独立したのが1953(昭和28)年。その前後、1952年と1955年にノロドムシハヌークが来日をしたことから、戦中のカンボジアブームの“記憶”が再燃することになる。それが、日本政府による、日本人のカンボジアへの移民政策だった。(以下、次回につづく)


















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