「13世紀のアンコールトムで周達観が見た胡椒と、20世紀初頭に抜群の品質を誇ったカンポットの胡椒」の関係に迫った第一章、さらに欧州(特にフランス)での胡椒の歴史に始まり、グルメや偽装食品、フランスでのカンボジアブーム、さらにはカンボジア料理の胡椒、最後は「ウドン=うどん説」にまでたどりついた第二章と、『カンボジアの胡椒とその周辺の物語』は続いてまいりました。(前回、連載第15回は以下から飛べます)
連載第16回からは、いよいよ第三章、21世紀、現在のカンボジアの胡椒、特にその生産者に迫ります。2017年には現地で突撃取材も敢行したその成果をお届けします。では、はじまり、はじまり~!
胡椒農場の親方 ティさん
2017年4月1日の朝7時半、フゥープッティさんの自宅の庭に私(筆者)はいた。ニワトリが5羽ほど走り回り、そのうちの1羽の雌鶏は13羽の雛を連れている。黒い雌アヒルが12羽の雛を連れ歩き、小さめの豚がうろうろし、痩せた犬もふらふらしている。フープッティさんの幼い子どもたちが髪をとかしたりしながら歩き回りあるいは泣いたり。賑やかな朝だ。
家の片隅に備えられた台所からはたくさんの湯気が上がっている。豚の頭を丸々煮ているのだ。その脇で若い女性がニワトリを捌いている。
カンボジアでは日本と同じく先に来るのが姓で、後ろが名だ。フゥープッティは、フゥーが姓で、プッティが名。カンボジアでは通常、名の最後のアクセントで呼びあう。名がプッティならティだ。
雑然としたその庭に、人が少しずつ増えていく。そのうちのひとりはティさんの兄だろう、声がよく似ている。声だけ聞いたら、ティさんと区別がつかない。昨夜会ったティさんの弟もティさんに似ていると思ったけれど、その弟より兄のほうが声はティさんそっくりだ。弟も、女性とモト(カンボジアでバイクのこと)のふたり乗りで到着した。今日見ても、弟とティさんはよく似ている。しきりに顔を手で拭う仕草もそっくりだ。
やがて朝飯となった。遠慮なくごちそうになる。
ナマズ入りのお粥だ。ナマズはティさんの家のすぐ北西側に広がっている沼で今朝捕れたという。「この網を仕掛けといたんだ」と見せてくれた筒状の網の仕掛けの中には、まだ新鮮な小魚や小さいエビが数匹、そして中ぐらいの大きさの泥ガニが1匹入っている。お粥の中のナマズは筒切りにされ、それを塊のまま口に入れて骨から身をチュウチュウと吸う。身はすっきりとした白身で淡水魚の泥臭さもほのかにあって、それが美味しい。おかわりをもらう。皆の足元には小さいドリアンが転がっている。栽培している農園で、若い実が風で落ちてしまったそうだ。
朝食をとっている家族の中を、ティさんが大きな声をあげて歩き回っている。今日は家族の大事なセレモニーだけれど、いつもの仕事着とかわらぬ服装で、あちらこちらに大声で指示をだしながら忙しそうに動き回っている。
ティさんはこのスラエオンバルで1968年に生まれた。ティさんの声は若々しくやや大きすぎるほどで、エネルギッシュな感じだ。中肉中背で、日に焼けた顔は見るからに太陽の下で働いている人のものだ。 ティさんには兄が3人、弟がふたり、妹がひとりいる。つまりティさんの両親には7人の子どもがいて、ティさんは4番目だ。
しばらくすると若い男の子たちが家の裏手から豚の丸焼きを持ってきた。茶色にこんがり焼けた皮がテラテラ光って美味しそうだ。昨夜から準備をして朝暗いうちから焼いていたらしい。豚の丸焼きの登場を合図に、お粥を食べ終わった面々が動き出した。
これから家の近くにある先祖のお墓で、先祖を敬う儀式がある。
カンボジアの国道4号線は、首都プノンペンから西にまっすぐカンボジア随一の海港シハヌークビルに向かう。プノンペンの街を出れば、高速道路のように車がスピードを上げて走る立派な舗装道路だ。中央分離帯はなく、無理な追い抜きをする車がいるとスリル満点でもある。2時間も走ると道は少しだけ標高を上げ、カンボジア南西部のエレファント山地を東西に通る標高100メートルの峠を抜ける。峠には交通安全にご利益があるという小さな祠があり、往来の車の多くが停まって人々が手を合わせる。峠を降りてしばらくすると、タイとの国境の町コッコンへ向かう分かれ道が右手に見える。そこを入ってから十キロほど走ったタイ湾沿いの小さな町スラエオンバルの近くに、ティさんの家がある。プノンペンからスラエオンバルまでは150キロほど、車で3時間強の道のりだ。

カンボジア語でオンバルは塩、スラエは田、つまりスラエオンバルとは塩田の意味となる。18世紀の資料にはカンボジア沿岸の町としてスラエオンバルの名前がみられる。きっと当時は塩の生産地として人が集まったのだろう。
祖父が開いた胡椒畑
ティさんの家はスラエオンバルの町の中心からは少し離れた国道沿いを横道に入ったところにあり、緑の森がタイ湾からゆるやかに標高をあげていくような場所にある。周りに大きな山はなく、カルダモン山地の裾の丘陵地が広がる。海から見ればスラエオンバルの背中あたりに、ティさんの胡椒畑がある。
胡椒の栽培をスラエオンバルの地で始めたのは、ティさんの父方の祖父だった。ティさんの祖父の入植は、2010年に70歳代で亡くなった父親が生まれる前のことだそうだから、1940年よりも前のことだ。
祖父は中国の海南島の出身で、若いころにカンボジア南部のタイ湾に面したカンポットに移ってきたという。そしてカンボジアの女性と結婚した後、スラエオンバルに移り住み、森を拓いて畑をつくった。最初に胡椒の木を植えたということだから、はじめから胡椒栽培を目的とした開墾だったようだ。
胡椒の木は挿し木でふやす。一般には挿し木3年目から少しずつ花が咲き、果実をつけるけれど、すぐに収穫すれば木を傷めることになる。緑深い森の中に畑を拓いた後、本格的に収穫を得るまでには、手間をかけながら5年は待たねばならない。初期投資を回収するために時間がかかるため、胡椒栽培を始めるためにはその期間を耐えるだけの経済力が必要になる。おそらく祖父はカンポットの胡椒畑で働きながら、胡椒について学ぶとともに、資金を蓄えたのだろう。
ちなみに、祖父の義理の母親、つまりティさんの曾祖母も祖父祖母夫婦と一緒に入植地にやってきた。ティさんの兄たちが生まれたときにはすでに祖父は亡くなっていたけれど、曾祖母はまだ健在で、兄たちは曾祖母のことを覚えている。
祖父亡き後、それを父親が継いだ。しかし、この地での胡椒栽培は1970年代後半のポルポト政権の時代に完全に放棄された。ポルポト時代に一区切りがついた1980年頃、ティさんの記憶では11歳のとき、父親は胡椒の栽培を細々と再開した。
その父親が糖尿病による高血圧が悪化して亡くなった後をティさんが継いだ。
祖父たちについては、私が2016年12月に初めてティさんを訪ねた際に、ティさんの母親ナイさんから聞くことができた。ナイさんはカンボジアのタケオ、プノンペンとカンポットの中間に位置している、の出身で、ナイさんの父親(ティさんの母方祖父)は海南語を話し、カンボジア語は下手だったそうだから、おそらく海南島の出身ではないかと思われる。
ナイさんによれば、ティさんの父親がスラエオンバルからタケオまで出向いてきて、彼女の家でお見合いをしたそうだ。ティさんの両親は、海南島出身者コミュニティのネットワークを通じて知り合い、結婚したのだろう。自身の父親の影響でナイさんはかなり海南語を使える。母親へのインタビューはカンボジア語でやり取りしたけれど、その合間に海南語と思われる言葉で母親はティさんとやり取りする。ティさんも片言の海南語はわかるらしい。「私の中国語は田舎の言葉だから、北京語を話す人たちには通じない」とナイさんは笑う。
家族に伝わる油条
ナイさんへのインタビューを終えてトイレを使わせてもらうために家の奥に案内してもらうと、そこに大きな小麦粉の袋がおいてあった。いわゆる業務用サイズの大きさだ。ナイさんに聞いてみると、油条を毎朝作って売っているという。油条とは中国式の揚げパンで、香港ではヤウティウと呼んで、そのまま食べたりちぎって粥に入れたりする。カンボジアの朝飯の定番の一つであるクイティウ(米麺)をスープで食べるものにも入れることがある。油条を入れるとスープにコクが出て美味しい。カンボジア語ではチャークァイと呼ぶ。母親はこのチャークァイの作り方を若いころに叔母に教わった。今では孫(ティさんの姪)が作っている。
母親がスラエオンバルに来たときには、もうすでに入植の祖である祖父(母親にとっての義父)は亡くなっていて、ティさんの祖母(母親にとっての義母)がティさんの父親と一緒に胡椒栽培を行っていた。この祖母が胡椒栽培に詳しかった。「お母さんは毎日胡椒畑で働いたので、私は家のことをやっていたの。だから私は胡椒のことはあまりよくわからない」とナイさんは言う。ティさんの父親は、自身の母親(ティさんの父方祖母)から胡椒栽培のノウハウを教えてもらいながら一人前になっていったそうだ。ティさんの胡椒作りは、祖父から祖母へ、祖母から父親へ、父親からティさんへと伝承されてきたのだ。


















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