祖父が入植した地、スラエオンバルで胡椒を作りを引き継いでいるティさんのことを前回まで数回にわけて書いてきました。(前回の投稿には、以下からとべます)
2017年師走、おぉ、あれからもう3年も経っているのだなぁ、に、私はカンポット地方の胡椒栽培地にも取材に出かけました。そのときのことを、カンボジア版「海南チキンライス」をとっかかりにして書いていきます。今回は、カンポットに出かける前に訪ねたプノンペンでの話まで。カンポットでの胡椒栽培に関しての内容は、以前に書いたことと重なる部分がありますけれど、そこはご勘弁。
海南チキンライス
カンボジアの朝食の定番として豚ご飯(バーイサッチュルッ)がある。甘辛く味付けした豚肉を炭火でやいたり、鍋で焼き揚げしたりしたものを、ご飯の上にのせて食べる、カンボジア版豚丼という趣の定食飯で、カンボジアの人たちは朝ごはんにペロリとたいあげて仕事や学校にでかける。黄身がとろりの目玉焼きを載っけて食べると、翌日もまた食べたくなる。
同じ朝飯の定番に鶏ご飯、バーイサッモアン、〝バーイ〟がごはんで〝サッモアン〟が鶏肉、がある。この鶏ご飯、白米にバーイサッチュルッの豚肉と同じように甘辛く味付けた焼き鳥を乗せたものが多いのだけれど、なかには鶏でとったスープで炊いたチキンライスに、そのスープをとった残りの茹で鶏を乗せたものがある。この種のチキンライスは東南アジアで広く見られる。タイならカオマンガイ、マレーシアならナシアヤムと呼ばれる類種の中で、もっとも広く知られているのはシンガポールの海南チキンライスだろう。この海南チキンライスは、中国南部の島、海南島出身の華人が広めたとされる料理だ。そしてカンボジアの炊き込みごはんを使った鶏ご飯も、海南島からの移民が持ち込んだ可能性が高い。
13世紀のアンコール時代、アンコールトムを訪ねた中国(宋)外交官の周達観という人物が『真臘風土記』という書物を書き残している。その原本は五千字に満たない漢文だ。その第二〇項目「出産(産物)」の中に胡椒に関する次の記述がある。
胡椒間亦有之纏藤而生纍纍如緑草子其生而青者更辣[1]
【コショウも時々またある。藤にまつわって生じ、累々とつながって緑草(あお草)の種子のようである。そのなまで青い者(ママ)は一層からい[2]】
漢字数で23文字、これだけだ。もし周達観がこの短い一文を遺さなかったら、13世紀のカンボジアで胡椒が採れたことが現代に伝わることは一切なかった。カンボジアの胡椒業界にとって、周達観は恩人といっても言い過ぎではない。
しかしアンコール王朝が15世紀前半に倒れた後、東南アジアの貿易品の記述が残る多く資料の中でカンボジア産の胡椒に触れたものは、私の調べた限り〝ごく少量の胡椒〟という伝聞の記録が一六世紀にひとつあるだけだ[3]。その後、18世紀後半からのフランス植民地時代に胡椒生産が大きく花開くのだけれど、その産地カンポットでの栽培を遡れば周達観が書き残したアンコール時代に行われていた胡椒栽培に至るのかどうかはわかっていない。そのカンボジアの胡椒の歴史を追ってみたことがある。
カンポットで現在胡椒園を運営している欧米系組織のホームページを調べると、カンポットの胡椒はインドネシアのスマトラ島西部にあったアチェ王国から伝わったと書かれているものがいくつも見つかる[4]。アチェ王国は、マレー世界の中で強力なムスリム国家を築いていたことで知られる海洋国家で、17世紀にその勢力の最盛期を誇った。19世紀にはオランダの侵略に抵抗しアチェ戦争が起こったことでも知られている。このアチェ戦争のとき、アチェの王がオランダに収奪されることを恐れて自らの胡椒園を焼き払い、その苗をカンボジアの海岸部カンポットに移植したというのが、カンポット胡椒アチェ起源説だ。
しかし、アチェ戦争が起こった1873年より20年も前1854年以前にカンボジアを訪問した英国人が、カンポットで胡椒が広く栽培されていたことを書き記している[5]。胡椒は挿し木してから本格的な収穫に至るまで5年近くかかることを考えると、その時点よりも早い時期にカンポットでの胡椒栽培は始まっていたはずだ。アチェ戦争を契機にアチェから胡椒の苗がカンボジアのタイ湾沿岸に運ばれたことはあったとしても、それがこの地域の胡椒栽培の起源ではありえない。
ジャンデルバールの調査によれば
ジャンデルヴェールはフランスの地理学者で、1949年から10年間カンボジアのフランス大使館文化部に在籍し詳細な調査を実施した。彼がカンボジアにやってきた1940年代後半には、カンポット地方の胡椒栽培はすでに広く知られていた。彼が書き残した『カンボジア』という本には、胡椒の生産についての次のような記述がある。文中のカンポートは、カンポットのことだ。
1955年ごろまで、沿岸地方はほとんど取り残されたままであった。沿岸の住民はカンボジア人、マレー人、ヴィエトナム人、華僑と多民族で構成されている。とくに華僑が沿岸地方の開拓者として重要な役割を果たしてきた。(略)
コショウ栽培ではカンポート地方が有名であるが、最初はコンポン・トラチュ地方に1840年ごろに導入された。
コショウ栽培といえば、ほとんどすべて華人が取り仕切っている。コショウ農園の持ち主はカンボジア国籍の華人で、潮州出身者が大部分を占めている。賃金労働者として働いている人たちは海南島から連れて来られた移民の子孫である。[6]
ここでは、カンポットの胡椒栽培が華人によるもので、またそこでの労働者は海南島からの移民の子孫だとはっきり記述されている。
また胡椒栽培専門家である後藤隆郎が記した『コショウ』[7]によれば、胡椒の育て方は現在大きく分けて現代的な〝集約的栽培法〟と伝統的な〝粗放的栽培法〟との二つがあるという。ポルポト時代以前、仏領インドシナまで遡れるカンポットでの胡椒栽培は集約的栽培で、これは華人が栽培を始めたマレーシアなどの栽培方法と同じだ。13世紀にアンコールの地での胡椒栽培法の詳細はわからないものの、まず間違いなく伝統的な粗放的栽培だったろう。
アンコールの地での伝統的な粗放栽培がカンボジアの中で細々と継続され、それがやがてマレーシアで始まっていた集約的栽培に移り変わっていったのか。あるいは、アンコール時代の胡椒栽培とはまったく関係なく、カンポット地方での胡椒栽培は華人が新たに持ち込んだものなのか。
20世紀中頃にカンボジアの農民の生活を調べたジャンデルヴェールは、カンポットで行われていた華人による胡椒栽培を「大いに非カンボジア的で異国的」であると評し、調査対象からこの胡椒栽培をわざわざ除いている[8]。これだけで判断するのは性急だとしても、現在のカンボジアの胡椒栽培の起源はアンコール時代から続くものではなく、むしろ新たに華人が持ち込んだ可能性は否定できない。そしてその胡椒栽培の労働力として、多くの海南島出身者がカンポットに移民した。彼らが育んだ胡椒が、19世紀末には抜群の品質として主にフランスで知られるようになり、高級ブランドとして扱われるようになっていった。しかし、土壌からの病気の拡大によって20世紀中頃からカンポットの胡椒栽培は縮小に向かい[9]、さらに1975年からのポルポト時代の混乱の中でいったん〝絶滅〟してしまう。
プノンペン、海南系華人が守る聖母宮
プノンペンの中心部、観光地にもなっている中央市場から北側に歩いて数分のところに、小さな聖母宮がある。聖母宮は航海・漁業の守護神である水尾聖娘という女神を祀る廟で、海南島東北部沿岸や東南アジアの華人が信仰している。水尾聖娘はもともと海南島の自然神だそうだ[10]。このプノンペンの聖母宮は、カンボジアの海南系華人の組織である海南協会が管理している。「朝早くににあそこに行けばお年寄りが集まっているから、何かわかるかもしれない」と教えてくれたのは、プノンペンにある海南系小中学校の、やはり祖父が海南島からの移民だった校長だった。
その聖母宮で知り合えたのが72歳だという何啓忠さんだ。彼の母語は海南語で、北京語も流暢ではないけれど使える。カンボジア語はもちろん達者だ。パートナーは潮州系カンボジア華人で「家では主に潮州語で話している」そうだ。
「私の祖先は、百年ほど前に祖父と祖母が海南から移民してきた。祖父母はカンポット県にあるカンポントラッチの町に胡椒農園を持っていた。父もその農園を継いだ。私は胡椒農園の仕事がつらくて、若いころにコックになった」 (続く)
[1]231ページ 周達観/著 和田久徳/訳『真臘風土記』東洋文庫 平凡社 1989
[2] 58ページ 周達観 前掲書
[3] その数少ない資料が、16世紀初頭、1512年から1515年に商館員としてマラッカに滞在したポルトガル人トメピレスが記した「東方諸国記」だ。トメビレスは自らカンボジアを訪問してはいないが、伝聞情報としてカンボジアの価値のある商品の一つとして「ごく少量の胡椒」を挙げている。トメビレスがマラッカに滞在したより80前に、カンボジアはすでにアンコール地方を放棄し、ポストアンコールの最も史料のない時代に入っていた。223ページ トメ・ビレス/著 生田滋・他/訳 『大航海時代叢書第1期5 東方諸国記』岩波書店 1978
[4] ファームリンクカンボジアという胡椒栽培組織が出している資料に、次のような記述がある。「胡椒から得られる富をオランダに奪われることを恐れたアチェ王は1873年に自らが持つ胡椒園を焼き払った。そしてその一部がカンポット地方に移された」
http://www.farmlink-cambodia.com/products/kampot-pepper 翻訳は筆者。
[5] 南インドのマドラス(現在のチェンナイ)駐留のイギリス将校(名前は不明)による『カンボジアの三ヶ月』(1854年にイギリスの雑誌に掲載)の中に胡椒が広く栽培されていることが記述されている。202ページ 北川景子/編訳『カンボジア旅行記』連合出版 2007
[6]82ページ ジャン・デルヴェール/著 石澤良昭・他/訳『カンボジア』クセジュ文庫 白水社 1996
[7] 後藤隆郎 『コショウ』熱帯農業シリーズ 熱帯作物要覧 No.26 国際農林業協力協会 1998
[8] 41ページ J・デルヴェール/著 石澤良昭/監修 及川浩吉/訳『カンボジアの農民 自然・社会・文化』風響社 2000
[9] 仏語版ブリタニカ大百科辞典とも言えるエンサイクロペディアユニバーサルシリーズは、エンサイクロペディアブリタニカの版権を持っていた米国の会社とフランスの会社との合弁会社が1966年に出版したもの。その1980年版でカンボジアの胡椒生産は以下のように記されている。
「胡椒は中国人によって導入された商業作物であり、依然として彼らの手にある。ベトナムの国境とカンポットの間のカンポントラチェ地域では、土壌の疲労や病気のためにその栽培地のほとんどが放棄されている。カンポットとシハヌークビルの間のエレファント山地の裾に卓越した例外的な繁殖が移されている。すばらしい品質の胡椒2500トンを産する。」
816ページ Encyclopædias Universalis Volume 3 ,1980、翻訳は筆者による
[10] 現代ビジネス インターネットページ 阿古智子/著「いま親日国カンボジアの人々が中国に共感し、米国を嫌悪する理由」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54305
















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