可愛らしいペットたちが怖くなることがある、障害のある私、というお話。

1991年ケニア・クウィセロ村で暮らしていたときにやってきた子猫。ザネリと名付け、1年強、飼いました。すぐに大きくなり、私のベッドの上で出産して、おかげでシーツは破水した羊水まみれに……

子犬や子猫、本当にカワイイです

 このネタはずっと前から胸に引っかかっていたことでした。いろいろと調べてから書こうと思いつつ、先延ばしになっていて。もう調べるのは諦めて、今の自分の頭でだけ考えてさっさと書いてしまおうと思ったのでした。

 ペットのことです。猫や、犬や、その他の、友として私たちの身近に存在するペット。

 私が利用しているフェースブックでも、よく可愛らしいペットの動画がアップされています。私もついつい見入ってしまうのです。特に子犬や子猫、カワイイです。私の見るページに、コンピューターによるアルゴリズムを使って選択的に流れてくる(つまり、私がついつい見てしまうそういう類似の動画が多いということなのです)は、たとえばゴミ捨て場などで見つかった野良犬、野良猫が犬猫保護センターのような場所に保護され、必要なケアを受け、そして里親にもらわれ幸せに暮らしているというストーリーの海外発動画です。そして、そんな野良犬・野良猫には、かなり高い確率で赤ちゃんがいる。おそらく、赤ん坊を抱えた母親犬猫だからこそ、保護される確率が高いということなのでしょう。映像の中には、どういうわけか母犬・母猫の姿が見えず子犬・子猫だけがいて、そして「こんなところに放置されていたら死んでしまう」ということで保護されるというケースも少なくありません。おいおい、親は自分の餌を漁りにいったんじゃないの?なんて思わないでもない。と思ったら、先日見た動画では、「1日様子を見ました。けれども親は帰ってきませんでした」なんて説明文が流れたり。うーむ、よく考えられた構成だわぁと感心することしきりです。

 そして、弱々しい様子の親子が、保護センターで食事を与えられ、シャンプーされ、そして最後は元気に飛び跳ねる様子でしめくくられる。いやぁ、良かったねぇ、と天の邪鬼な私でも思います。そして、最初は悲しそうだった犬や猫の表情が、たしかに変わるように思えます。表情が柔らかくなるとかいうことはきっとある。彼ら(ペットたち)が自然界でもかなり“進化が進んだ”存在であり、脊髄動物哺乳類として人間にも近い感情を持った存在なのは、確かにそうなのだと思います。

 あるいは自分で飼われているペットの写真を投稿する友人・知人も少なくありません。彼ら(友人・知人)にとって、そんなペットの存在は、日々の生活でとても大切な位置を占めているのが、投稿からはびしびしと伝わってきます。ときにはそんなペットの訃報にふれることもあります。さぞ辛く淋しいことなんだろうな。

私もペットを飼いたいけれど、自重しています

 私自身も、ペットとのご縁があります。若いころ好きだった女性の実家には猫がいました。そして、幸運にも私は彼女と一緒に暮らし始め、そして彼女はどこからか赤ん坊のオス猫をもらってきました。実は当時の私は猫嫌いでした。子どものころに飼っていたジュウシマツや金魚を襲ったのが近所のドラ猫たちで、彼ら(ドラ猫ら)はジュウシマツの鳥かごに体当りして落とし、金魚鉢の金網をうまく外して、そして何羽も何尾も殺られた。そんな記憶があったものでしたから。でも、一緒に過ごしているうちに、やっぱりかわいく思えるようになったのでした。今思えば、まだまだ猫との付き合い方初心者でしたけれど、彼(猫)も、彼女の次に私になついてくれたものでした。

 20代後半にケニアで2年生活したときにも、縁あってザネリというメス猫を飼いました。彼女(ザネリ)は異郷での一人暮らしをずいぶんと慰めてくれたものです。私が食事中にテーブルに乗ってきたザネリを叱ってドアから外に出した翌朝、大きなトカゲをくわえて戻って来たのには大笑いでした。

 機会があれば、犬とも暮らしてみたいなぁと思います。人間の勝手な妄想ですけれど、自分に懐いて自分を信頼する犬って、おそらくとっても気持ちのいい隣人であろうと思うのです。よく犬は裏切らないなんてことを言いますけれど、いいじゃないですか、裏切らない存在って。
 それでも今のところ自重しています。まず、ペットがいたら長期留守にできません。いや、いろいろ手立てをすればできるでしょうけれど、それはペットにはきっとストレスでしょうし。また、やっぱり看取る覚悟ができません。谷口ジローの名作『犬を飼う』で描かれているような、老いた愛犬の壮絶な介護を自分ができる自信はとてもないのでした。

 最近、悲しいことがあった年老いた母に、たとえば彼女を慕う子犬や子猫がいればと思うこともないのですけれど、慣れてしまうまでは彼女(母)は嫌がるだろうなぁと思うと、そうそう気軽にペットをプレゼントするわけにもいかないし。なんて、思ったりもしています。

ペットの生命の重さとは

 と、実は長々とここまでが前書きでした。以下、ゆるゆると本題に。

 先の東日本大震災などでも、災害避難とペットの問題が大きく顕在化しました。ペットを避難所に持ち込めない。緊急状況で、泣く泣くペットを置いて避難した人たちも多かった。その後も、たとえば数年前の熊本での地震災害の際に、ペットが一緒だから避難所には行けないと、車で生活していた家族がいるのをテレビのニュースで見ました。気持ちはよくわかります。

 だって、ペットのほうが知らない他人よりもずっと大切だと思う気持ちは、ごく当然の感情だと思いますもん。当然ですよ。自分を慕ってしっぽを振る愛犬を見捨てなくちゃいけないって、すごく残酷なことでしょう。ペットの存在が、日々の生活の心の支えになっている人はけして少なくないはずです。そんな人たちにとって、例え緊急事態だからといってペットを見捨てることは、まさに「死ぬより辛い」ことなんじゃないかな。ペットは家族。我が子同然。そんなふうに思う人は、多いはずです。

 ペットに対する「生存権」は、いわゆる先進国でより強く意識されています。先に紹介した私が映像で拝見する「野良犬・野良猫を助ける人たち」も、ほとんどすべてが欧米諸国での映像です。どうやらそういう専門職、ボランティアの人たちがかなりいるようです。
 私が暮らすカンボジアでもペットを飼う人たちはいます。けれど、あくまで私の個人的な感覚ですけれど、カンボジアでのペットと飼い主との関係のほうが、たとえば日本の愛玩動物を飼う人たちとその愛玩動物との関係よりも、ずっとドライです。災害時にペットが一緒でなければ避難できないという感覚は、カンボジアの多くの人たちには理解できない「ワガママ」と思えるんじゃないだろうか。

 なぜ、ペットがそんなに大事なのか。ひとつは、ペットの擬人化がたしかにある。ここまで、私も自分の文章の中で犬や猫に、彼や彼女という代名詞を使っていますけれど、まさにこれも擬人化です。(生物教師としては、擬人化ってやっぱり誤った理解を導く危険性があるとも思っています、それはさておき)。
 飼い主たちにとって、ペットはけして愚かな存在ではない。飼い主の言うことをよく理解する。単に理解するという存在以上に、どこか以心伝心、黙っていても心が通じるようなこともある。笑ったり悲しんだりする。人間と同じような賢い存在が愛するペットなのだと想像します。

 愚かでない、から、思い出すことがあります。
 イルカやクジラの問題です

 2009年に公開された『ザ・コーブ』は、和歌山県太地町のイルカ漁を告発する米国のドキュメンタリー映画で、米国でのアカデミー賞ドキュメンタリー長編賞受賞作です。要は、太地町で長年行われてきたイルカの追い込み漁が残酷な狩猟方法であるという内容の映画でした。
 この映画を撮った側は、この時代にはまっこうから「イルカは高い知能の生物だから、残酷な殺し方はよろしくない」とは主張しません。私の記憶では、製作者たちがイルカ漁に反対する理由の第一には、食物連鎖の頂点に位置するイルカの肉には多くの残留重金属が含まれていて、特に子どもたちが食べるのは危険である、だったはずです。実際に、太地町では、漁で採られたイルカ肉が学校給食で使われていたということもあったようです。それに反対するのだ、と。

 でも、彼らの思想の背景には、間違いなく「イルカが知能の高い生物である」という考えがあると私は理解しています。1970年代にも(もしかしたら80年代始めかも)、日本でイルカの追い込み漁の魚網を切って逮捕された米国人がいました。この時代だと、漁網を切った米国人は「イルカは賢いのに殺すなんて」という言説をまだはっきりとしていました。(出典は、本多勝一の記事なのです、高校あるいは大学時代に読んでいるものなんですけれど。今、手持ちの本多の著作でざーっと探したのですけれど、すぐに見つからない。ごめんなさい。)
 この事件を取材した本多は、 「知能が高いとはどうやって測るのか」 、「なぜ知能が高いと殺すことに躊躇するのか」という二つの問題を読者に投げかけました。20歳前後の私も、この二つの問いにすっかり考え込んだことを懐かしく思い出します。
 本多の解は以下のようなものでした。まず知能の定義すら明確にすることは簡単でなく、それを測る物差しもない、ということです。たとえば学校の成績がいいが、そのまま知能が高いではないのは言うまでもないことですよね。また「知能が高い生物は殺してはいけない」とすれば、「知能が低い生物は殺してもいい」となりかねない危険性を本多は指摘しました。つまり、人間の中にも知能が高いものと低いものがあり得る。知能が高いことを理由にイルカを殺すことに躊躇する価値観は、知能の低い人間の生命を低く見積もるものだと本多は告発したのです。

 人間と人間以外の生物の間に境界を設けるしかないだろうと、当時の私は受け止めました。人間は、他の生物(家畜たち)の生命を奪って生きています。厳格な菜食主義者でない限り、ウシ、ブタ、家鶏らの肉や卵を食せずに暮らしている人はいない。そのことを原罪と捉えれば、人間と人間以外の生物の間に境界を設ける以外にない。

 たとえば、愛犬家にとっては犬を食することはひどい行為でしょう。けれど、世界的には犬食はそれほど珍しい行為ではありません。けれど、犬食の看板を上げることは今や世界中で避難の的となりつつあります。なぜ?なぜ、他の動物は良くて犬はだめなの? 犬が賢いから? ウシでもブタでも、ペットして飼えば、さぞ可愛いでしょうし、しかも人によく懐きます。犬食がだめで、ウシ・ブタを食べていいことの論理的な理由は存在しないと私は思います。見ようによっては、どちらも残酷なのは同じです。

 つまりは、絶対に「食べてはいけない」という共通価値観を持てるのは、21世紀の世界では、人間食は止めましょうということでしょう。さらには、絶滅が心配れている生物を、ことさら食さなくてもいいでしょう、とは言えるでしょう。もはや、絶滅危惧種を食べなくても、代わりに食べるものはいくらでもある。
 もちろん、ここでは文化的な価値観をとりあえず横に置いておきます。そして、もし文化的価値観を持ち出したとしても大きな差はない。ある文化で人間食が認められているとしても、もはやそれを尊重することは先鋭的な文化人類学者でも難しいのではないでしょうか。そして、たとえ文化的価値観を持ち出しても、絶滅危惧種を狩って食することは控える価値観が世界の共通認識になりつつある。

人間よりも、犬猫の避難?

 つまり、人間と人間以外の生物の間にある境界はかなり強固な存在です。人間以外は、必要があれば殺しても仕方がない。

 しかし、愛玩動物の広がりは、この人間と人間以外の生物の間にある境界を揺さぶります。

 感情的には理解できます。赤の他人よりよっぽど我が家の一員である愛犬や愛猫のほうが大切だ。さらには、自分のペットではないけれども、野良犬や野良猫も、保護の対象としたい気持ちも広がっている。

 理由は、可愛いから?人類の友人だから?

 今年8月、次のような報道がありました。イヌ、ネコもアフガン退避か? 保護施設職員と専用機で―英国:時事ドットコム (jiji.com)
 アフガニスタン駐留経験のある英国の元海兵隊員が首都カブールに設立した犬猫保護施設から、混乱の続くアフガンからチャーター機で犬猫約200匹(私が読んだ英文の報道では、犬猫以外にロバも?)が脱出する、というニュースです。このチャーター機の費用は、クラウドファンディングで主に英国内で集められたとのことですから、それなりの多数の賛同者がいたのでしょう。他の英文記事によれば、9月1日には実際にこのチャーター機は飛んだようです。救出されたペットたちには「カブールの路上で救出された犬や、英国軍人を慰めた犬たち」が含まれているとのこと。

A woman who helped process rescued dogs and cats flown from Afghanistan said they were “in amazing condition”.アフガニスタンから飛んだ犬や猫を救出したプロセスを手伝った女性は、彼らが「驚くべき状態にある」と語りました)Afghanistan: Rescued animals ‘in amazing condition’ in UK – BBC News
 私、この記事を最初に読んだ際、in amazing conditionの意味を、驚くべき=カブールでひどい環境に置かれていた、と読んでしまいました。けれど、続く文章を読んでいくことで、 in amazing condition は、運ばれてきた犬猫たちが「素晴らしい状況にある」という主旨なのだということがわかりました。英国に運ばれた彼ら(犬猫)は、いまや安全で衛生的な状況、つまり素晴らしい状況に置かれ、退役軍人たちに引き取られることが期待されているそうです。

 いっぽうで、他の記事によれば、この犬猫保護施設のローカルスタッフは犬猫とは一緒に退避させてもらえませんでした。A former British marine who ran an animal sanctuary in Kabul that was home to 200 cats and dogs has left Afghanistan on a chartered plane with his pets – but left his local staff behind.(200匹の猫と犬が住んでいたカブールで動物保護区を経営していた元英国の海兵隊員は、ペットと一緒にチャーター機でアフガニスタンを離れましたが、地元のスタッフを置き去りにしました)British ex-marine leaves Afghanistan with 200 dogs, cats but no local staff | Euronews

 犬猫がチャーター機で英国に向かった8月末から1ヶ月以上経った10月8日、日本国の支援を受けてアフガニスタンを出国したアフガニスタンの日本大使館やJICA(国際協力機構)で働いていた現地スタッフとその家族53名が、ようやく民間機で成田空港に到着しました。避難した皆さんにとっては、この後がまだまだきっと大変な生活なのだと想像します。けれども、危険だと判断して故郷を逃げ出したのだとすれば、まずは、ようこそ、まずは、よかったね。
 でも、救出されロンドンに到着した犬猫(ロバ)よりも、ずいぶんと到着が遅くなってしまいましたね。彼らは、避難を望む自分たちよりも早く、犬猫保護施設の動物がチャーター機で救出されたのをどのように現地で受け取っていたのでしょうか。力のある者(この場合は英国元海兵隊兵や、募金に賛同した英国市民たち)の選択に、弱者はとやかく言えないと、諦めの気分だったでしょうか。日本国のもたもたとしたサポートに、ますますイライラしたでしょうか。
 とにかく無事でなによりでした。

競合ライバルとしてのペットと障害者?

 先の英国への犬猫脱出騒動へは、英国内からも「まだ避難できていない人がたくさんいる中で、なぜ犬猫にチャーター機を回すのか」という疑問の声があがったようです。一方で、犬猫を心から愛する人たちにとっては、人間だけではなく、きちんとペット(路上で救出された犬もいたのですから、ペットだけではなく野良犬もいたわけですけれど)にも配慮する人たちがいたのは、心温まる朗報でもあったはずです。

 さて、このような状況をどう理解すればいいのでしょうか。

 同じような状況は、さまざまな状況・場面で起こっています。東日本大震災でもそう。
 これだけ多数の人たちが共存している中で、さまざまな価値観を持つ人がいるのを否定的に捉えることはしたくありません。多くの支援が(たとえば公的な支援が)人に向けられる中で、その支援がとどかないペットなどの人間以外の動物に注目した支援を行う民間の人たちがいることも、否定することはない。むしろ、一種のヒューマニズムの発露と積極的に肯定することも可能でしょう。

 けれど、私の心には、なにかモヤモヤとしたものがあるのです。その背景には、間違いなく私が障害者であることがあります。ある状況では、私の生命とペットたちの生命との優先順位が表面化することがあるんじゃないだろうか。そして、ペットの生命のほうが大切と思う価値観を持つ人たちがいても、当然と思う気持ちが私の中にはあるのです。つまり、『「あなたの大切なペットを助けるよりも、まず私を助けて」と私は言えるだろうか』という不安が私の中にあるのです。
 あるいは、健常者であれば助けてもらえても、障害のある我が身では後回しにされるかな、という不安。ペットよりも後回しに。

 そもそも、人間と人間以外の生物の間に引かれる境界が自明である、という了解そのものが、実はあやふやです。それどころか、ちょっと油断すれば、人間の中にも境界を引こうとする価値観が力を持っているかのように見える。たとえばすぐに思いつくのが、「生産性」です。そして、ペットも私(障害者)も生産性はそれほどないと判断されるかもしれない。と、その次は? 可愛さ、愛おしさ?うーん、これ、私、自信ないです。動画で流れる子犬や子猫のほうが、絶対にカワイイし、愛おしいん。とすれば、やっぱり状況によっては私は後回しにされるだろうか? 特にペットの権利が高く位置づけられつつある、先進国では危ない。

 いや、後回しにされたって仕方がない、という現状把握というか、覚悟がないわけではありません。けれども、当事者があんまり達観するのもよくないなぁとも思うのです。障害者だろうと、これから高齢者になっていく身だろうと、なぜ私が後回しにされるのか?と、その理由を問い続けないといかんよと思うのです。そして、そんな問を立てたときに競合ライバルになるのがペットたちではないかと、恐れているのです。

 今や、日本では災害時の避難所にもペットが飼い主と一緒に退避できることを考える時代だと思います。またペットが私たちを勇気づけ癒やす力を見くびってはいけない。おそらく、かなりすごいパワーを秘めていると思う。病院や、学校や、介護施設で、これからペットの力を借りていく道をどんどん探っていいとも思うのです。一方で、障害者の競合ライバルがペット? つらいけど、これ、現実なんじゃないかな。
 できれば、そういう最前線には出会わないでいたいなぁ。でも、私が出会わなくても、そういう最前線は今もどこかにある。となれば、やっぱり人優先なのは、仕方ないのかな、とは思ったりするのです。愛しいペットよりも、寝たきり障害者を先に助けることに、さて、どれだけの人が同意してくれるのだろう?公的に云々ではなく、心情として納得してくれるのだろう。未来はさて、どうだろう?

 

 

 

1件のコメント

備忘録としての村山自身の追記
デンマーク領フェロー諸島でのイルカ狩りに対して、反対の署名を求める声明を受け取りました。

https://secure.avaaz.org/campaign/jp/end_the_dolphin_grind_rb_loc/?bvrVeob&v=136803&cl=18861775671&_checksum=d36ded7cd0ecb3af0c89f890088b2e9ba8bad7db112b1654cb0186f7bb8d8c6a

声明文中には以下の記述も。
「感情豊かで、喜びや悲しみを理解できるイルカは、もっとも賢い生物種のひとつであるといわれています。大勢の仲間たちが虐殺された入り江で、イルカたちが感じたであろう恐怖を想像してみてください。」
ここまではっきりと「賢い生物種」と書いているのには、じゃっかん驚きました。未だにこれかよ、という意味で。あまりにも無邪気だと、私は思います。
イルカにせよなんにせよ、不必要な大量虐殺には反対ではあります。じゃ、何が必要か不必要なのか、の境界になるのか。そこは、それぞれのケースで、それぞれが考えるしかありません。フェロー諸島のケース、私は、それを判断するだけの材料を持っていません。

とにかく、「賢い生物種」と簡単に書ける感覚が、あまりに無邪気。この無邪気さは、怖いと私は強く感じます。傲慢さも感じます。不必要であるとを、もっと論理的に主張して欲しいです。

村山哲也

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