このブログとほぼ同じ内容を、以下のページではカンボジア語で書いています。ទំព័រខាងក្រោមមានខ្លឹមសារស្ទើរតែដូចគ្នាទៅនឹងប្លុកនេះ ប៉ុន្តែជាភាសាខ្មែរ។
自国の政府は嘘をつかないと信じるのは、紛争時であれば当然なのか?
カンボジア国とタイ国との国境紛争問題は、両国で数十名の犠牲者を生んた後、ひとまず7月29日午前0時に停戦となりました。両国とも、10万人を優に超える避難民がいました。これを投稿する8月2日は停戦発効から5日目です。けれども、ニュースやSNSではまだきな臭い情報が飛び交って、両軍が互いを批判をしあっています。SNSの中には、未確認な情報をもとに興奮したコメントも顕在しています。何んともなぁ…。危険を避けてホームを離れている人たちが自分の家にもどり安心して日常を取り戻せる日が早く来ることを心から願います。
殺された人たち、怪我を負った人たちは、軍人がいて、市民がいます。その家族の心痛は同じでしょう。心からお見舞い申し上げます。
けれども、私には軍人の死傷者と、市民の死傷者とは、その意味がずいぶんと違うように思えます。
今回の紛争で使われた兵器には、機関銃・ロケットランチャー・迫撃砲・多連装ロケット砲弾・ドローン爆撃弾・ジェット戦闘機弾……等々、多くの兵器があって、そのすべてを軍人が発射しています。もしそれが防衛のためだとしても、銃弾やロケット弾を撃つということは「敵を殺す」ということです。軍人の仕事は「敵を殺す」ことだ。それはつまり「敵に殺される」ことでもあります。
けれども市民は違う。市民は撃たない(はず)。つまり一方的に殺される存在です。軍人/兵士が殺されることと、市民が殺されることと、それが同じはずはないのです。
今回、カンボジア側もタイ側も「相手が先に撃った」と発表しています。それぞれの軍事行動は、あくまで「防衛のため」だと発表しています。
カンボジアの人たちの多くが、Facebookのプロフィール写真に下にあるようなメッセージを入れています。「ថៃវាយប្រហារមុន កម្ពុជាការពារខ្លួន Thailand attacks first, Cambodia defends」、日本語訳で「タイが先に攻撃し、カンボジアは防衛する」です。

おそらくタイの社会では、「カンボジアが先に攻撃したから、タイは防衛する」という気分で満ち満ちているのでしょう。けれども、防衛するから市民にロケット爆弾を打ち込んでいいということにはけしてなりません。タイの攻撃で生活している場で殺されたカンボジアの市民がいます。カンボジアの攻撃で生活している場で殺されたタイの市民がいます。「防衛だ、自己防衛だ!」と叫ぶ両国の人たちは、防衛で市民が殺されるのは仕方がないとでもいうのでしょうか?そこ、ぜひ考えて欲しいです。
なぜ、両国それぞれが「相手が先に攻撃した」と発表するのか? これは、どちらかが本当で、どちらかが嘘ということなのか? つまり、それぞれが相手が嘘をついていると非難し合う。
自国の政府発表が正しく、相手の政府発表が嘘だと、市井の人たちはどうやって判断しているのでしょう? それとも、単に「私は自国の発表を信じる」ということなのか? 自分の国の政府が嘘をつくはずがない、のか? どちらの国の市民も、自分の国の政府が嘘をつくはずがないと信じるのか? でも、実はこの場合の嘘と本当を、市井の人たちが直接確認する術はほとんどありません。単に、信じるか、信じないか。ならば、「判らない」「判断できない」という立場はないのか? そういう立場は許されない、ということなのか?
それとも国家同士の戦争状態になれば、無条件で自国を支持し、熱狂するのが国民の常なのだから、ということなのか?
過去の戦争から学ぶこと その1: 政府は真実を語らないことはある
1937(昭和12)年、中国で起きた日本軍と中国軍の衝突は、日本では盧溝橋事件、中国では七七事変と呼ばれています。このときも、それぞれの軍は「相手が先に攻撃を仕掛けてきた」として、自衛のための戦闘を開始しました。
現在では、日本軍側が仕掛けた戦闘ということが定説になっています。けれども、詳細を詰めていけば、よくわからないことも多い。つまり、私には真実はわかりません。けれども、問題はなぜ中国に日本軍がいて、そこで軍事行動をとったのかということです。日本側には中国を侵略する意図がありました。それこそが大きな問題だったのです。
1964(昭和39)年、ベトナム北部と中国海南島に挟まれた海域(トンキン湾)で、南ベトナム軍を支援していた米国海軍艦艇に、北ベトナム軍魚雷艇が魚雷と機関銃による攻撃を仕掛けました。その後、北ベトナムへの報復攻撃を米国国会は圧倒的多数で承認し、米国軍はベトナム戦争に本格介入し、北ベトナムへの爆弾攻撃も開始されました。
けれども、現在では、これは米国側が仕組んだでっち上げの事件だったことが、政府や米軍の関係者の証言や米国政府の公開された機密文書から明らかになっています。北ベトナムは当時から北ベトナムによる先制攻撃は嘘だと発表していましたが、東西冷戦の中、米国政府を支持する西側諸国はこの北ベトナムの声を無視してベトナム戦争の激化を招いたのです。
このように、過去の歴史を振り返ると、国家間の紛争では自国に有利な情報発表が多くなされています。そして、中には虚偽の情報も少なくない。この歴史を振り返れば、今回の紛争でも、はたして政府が本当のことを発表しているのかどうか慎重に判断する必要があるはずです。つまりタイ側もカンボジア側も、政府発表が100%真実とは限らないはずです。けれども、両国の市民は愛国心からかそれぞれの政府の発表を疑うことなく信じているように私は感じます。もう少し冷静になってもいいのではないかしら。
軍人であれば、まず軍の指示に従わなければいけません。 けれども、国民・市民は? 市民は国家と同一である必要があるのでしょうか? 私は市民と国家が常に共同歩調をとる必要はないはずだと考えています。国家が白と言ったら、市民も白と言わなければいけないとすれば、それは行き過ぎた愛国心です。あるいは、政府権力が強すぎて国民の批判的視線・批判的言論を許さない専制主義が存在するのか。
国難に立ち向かうために挙国一致しなければならない。そういう気持ちは理解できないではありません。けれども、先に書いたように、紛争とは殺し合いなのです。殺す対象は、市井の市民も含まれる。とすれば、紛争そのものはよほど慎重に支持しなくてはいけないと思います。自衛ならば仕方ないのだという理屈だけですべてが許されるとしたら、けっきょく両国が自衛のために市民を含めて殺し合う選択肢を選ぶということです。それはあまりに愚かしい。
過去の戦争から学ぶこと その2: 軍が市民を守らずに、むしろ危険にさらすこともある
停戦が成立して、戦死した兵士の葬儀も行われています。その画像には、「祖国を守るために犠牲になってくれた兵士の死を悼む」という主旨のメッセージがつきものです。紛争が勃発した際にも、SNSには「主権を守る、領土・国土を守る、国民を守る、そのために戦う兵士の皆さんありがとう」というような書き込みを多く見ました。
兵士は、確かに領土・国土を守っているでしょう。越境してくる敵を死傷させてでも追い払う権利を有している。それぞれの主権、つまり代表政府の権利も守っているでしょう。その政府に兵士は雇われ戦っているのですから。では、兵士は国民・市民を守っているでしょうか。国民・市民の生命と財産を、兵士は本当に守っているのか?
私の祖国日本は、今から80年前に大きな戦争を経験しました。当時はまだ植民地支配が多くの地域で行われ、日本もその流れで中国を侵略しようとした。同じように中国の侵略を狙う欧米との競争の中で、大きな戦争が起こったのです。
日本はまず中国軍と戦いました。これは現在の価値観で振り返れば日本による侵略戦争です。戦地は中国です。中国軍が日本の領地に攻め入ってきたわけではないのです。日本による侵略戦争は、その後東南アジア全域、さらには南太平洋に広がっていきました。仏領インドシナへも日本軍は侵攻しました。カンボジアも一時期日本軍が占領したのです。
そして、その戦争は、植民地を争っていた米国・英国との戦争も勃発したのです。そして1945年に日本は無条件降伏して終戦します。敗戦直前には、ヒロシマ・ナガサキに米国軍が原子爆弾を落とし、短期間で数十万人が殺されたことはカンボジアでも広く知られているでしょう。
この大戦争の経験は、さまざまな教訓を今に伝えています。
日本の最南端に位置する沖縄諸島は、この戦争の終盤に米国軍の攻撃を受け、県民の4人にひとりが殺されました。ここで「殺された」と書けば、多くの人は、米軍の攻撃で殺されたと考えるでしょう。でも事実はもっと複雑でした。
たとえば避難した洞窟で、やはり逃げてきた日本軍から追い出されてしまった住民がいました。隠れていた洞窟で、赤ん坊が泣き止まないのを「敵に隠れ場所がわかってしまう」と殺してしまうケースもあった。「米軍の捕虜になる前に、自殺するように」と軍から指示されて手榴弾をわたされ集団自殺した住民がいたこともわかっています。
つまり、軍人は必ずしも住民を守ったわけではなかったのです。軍人にとってはあくまで作戦の実施や、自分たちの命のほうが、市民の生命よりも優先順位が高かったのです。
日本軍が日本の国民・市民を守らなかったケースは、中国国内の戦地でも報告されています。勝っているときはとにかく、逃げるときとなれば、兵士だって我先に逃げ出すものなのです。
これは日本軍に特別な行動だったのでしょうか? 他の国の軍隊では、自国の住民を見捨てるようなことはあり得ないのでしょうか? 私にはわかりません。けれども、これまで多くの事例で、戦争の混乱時には多くの市民の犠牲がともなうことが分かっています。軍が自国民を守らないことがあることは歴史的に証明されていると言っても過言ではないと私は思っています。
軍がいるから、敵から攻撃を受けるという事例も山ほどあります。むしろ軍が駐留したときのほうが危ないという考え方もあるのです。過去の事例を学ぶと、私も「軍が国民を守ってくれる」ということは100%信じることはできません。もちろん、災害発生時などに軍が支援してくれるということはあります。日本でも2011年の東日本大震災(大津波と原子力発電所事故とで、カンボジアでもよく知られていますよね)では、日本の軍隊が市民の生活復旧の支援に大活躍してくれました。けれども、状況によっては軍がいるから市民に被害が出る。今回の国境紛争でも、軍同士の紛争が理由で国境から数十キロも離れた場所で、ロケット砲弾によって市民が死んでいるのです。どちらの国でも、です。
(正直に書くと、無差別攻撃の度合いは、タイ軍よりもカンボジア軍のほうが多いのではないかという印象を私は持っています。 タイ軍のドローンによる爆撃はピンポイントで軍事施設を爆撃しています。カンボジア軍が使っている多連装ロケット砲弾は、市民への無差別攻撃となっているような印象を私は受けます。軍人と市民の被害者数をどうぞ比較してみてください。カンボジアの軍人の被害がカンボジア市民より多く、タイの軍人の被害がタイ市民より少ないのは、何か理由があるのだろうか、と考えてしまいます。ちなみに、タイも多連装ロケット砲弾をつかっているのかどうか、私は未確認です。タイが毒ガス攻撃をしたという書き込みもインターネット内では見られますけれど、国際ニュースでは流れていません。毒ガス攻撃が事実なら、当然非難されるべきことです。クラスター爆弾を投下したのは、タイ軍も「防衛のため」と認めています。広範囲に広がるクラスター爆弾は無差別性が高い攻撃だと言えます。つまり、どっちもどっちなのか? とにかく、そうやって市民が巻き込まれていくわけです。)
共感し合えるのは、紛争に巻き込まれる市民同士のはずなのに……
「自国政府の発表であろうと疑う」ことが当たり前な私にとって、カンボジアの人たち(あるいはタイの人たち)の自国政府への信頼の高さは少し不思議にも思います。私にとっては、国家と国民・市民一人一人は、別です。国家が白と言っても、個人としては黒だ、ということはあって当然だと思うのです。タイ政府やタイ軍を憎むことと、タイの市井の人たちを憎むことが、あまりに当たり前に起こっているのが残念で仕方ありません。
なぜそんなに簡単に政府や軍を信じることができるのだろう。ある部分はタイ政府が嘘をついていて、ある部分はカンボジア政府が嘘をついている、ということもあるのじゃないか? そもそも「どちらが先に撃ったか」なんて実際の前線にいても簡単にはわからないのではないだろうか? つまりどちらも嘘はついていないってことだってある。百篇繰り返して「相手が先に撃ってきた」と言っているうちに、やがてそれが本当になる。実際に起こった事実はもうどうでもよくなる。とにかく、相手が先に撃ったんだ!……
紛争・戦争が始まれば、市民も殺されるのです。本来ならば、もっとも共感し合えるのは、紛争で難民になった市井の地域住民同士なのではないでしょうか? それがカンボジアの住民であろうとタイの住民であろうと、同じ市井の人同士なのです。とつぜん、政府が(軍が)始めた紛争に巻き込まれて、たいへんな思いをしている人同士、彼らこそがもっとも共感し合えるはずなのです。けれども、実際には、そうならない。それぞれが「相手のせいで、自分たちが殺される、逃げなければならない」となって憎しみ合う。それは紛争の発生以上に、辛く悲しいことなんじゃないでしょうか。
自国万歳が当たり前なのか?
でも、そのように自国中心・自国万歳になってしまうのも無理もないのかなぁと思わせることが私の周りでも散見されます。
ひとつは、7月に行われた日本の国政選挙(参議院選挙)で、「日本人ファースト」というキャッチフレーズを掲げた政党が大躍進したことです。選挙期間には、SNSに真偽不明の情報も飛び交いました。一部の有権者は、不確かな情報でも自分の聞きたい情報を優先したのです。
この紛争の両国で「タイ人ファースト」「カンボジア人ファースト」という気分がそれぞれの社会で充満していること、「自分の国の政府が正しいことを言っている」という聴きたい知りたい情報を優先して信じることは、「日本人ファースト」の気分とよく似ていると思うのです。
もうひとつ、タイ在住の日本人はカンボジアを悪く言い、カンボジア在住の日本人はタイを悪く言うという傾向があることです。タイ在住の日本人YouTuberは「カンボジアが先に攻撃をした」と信じていますし、カンボジア在住の日本人はSNSの中でICJ(国際司法裁判所)のプレイヴィヒア寺院がカンボジア領であるとする1962年と2013年の判決を、鬼の首を獲ったように繰り返すのです。つまりタイが判決を守らずいるから紛争が起こると主張する。
そのYouTuber自身が「どちらが先に攻撃したか」を確認することはできるはずはありません。もちろんYouTuberなりに情報収集はしているにせよ、「カンボジアが嘘をついている」という決めつけは、ちょっと行き過ぎていると私は感じます。またICJの判決を強調するのはカンボジア政府の常套句ではありますけれど、調べてみるとICJ判決にも問題がまったくないわけではない(と私は思う、例えば判決ではプレイヴィヒア寺院がカンボジア領であることは認めてみますけれど、寺院周辺の領地に関しては両国の協議を求めるに留めています。そこにタイとカンボジアの主張の行き違いが生まれている。それぞれの言い分にはそれぞれの理屈があり、つまりまだグレーゾーンは残されているのです)。そして実際にはタイ側にはICJ判決に不満が残っているのは確実なのです。ICJ判決が出たからと言って白黒ついていない事例は、この国境紛争に限らず世界には散見しています。ですから、ICJの判決ですべてが決まるわけでもない。もしICJ判決が出ているのだから、もう文句を言うなと言うのであれば、それはカンボジア側の主張のみに乗っているのだと私は思う。
少ない事例ではありますけれど、それぞれ住んでいる国を愛するが故か、住んでいる国の主張に染まる日本の人もいる。とすれば、当事者であるカンボジアの人、タイの人が、そうそう冷静に客観的になれるものでもないのかなぁ。でも、だとすれば残念なことです。
報道の自由・透明度について、一言
「タイのニュースばかりが報道されて、カンボジアのニュースが報道されない」という不満を持つカンボジアの人(例えば日本で暮らすカンボジアの人)は少なくない。その気持ちはわからないではありません。国際報道機関関係者は、バンコクのほうが、プノンペンよりもずっと多いでしょうし。けれども、そんな不満を持つカンボジアの方々に一言苦言は呈したい。
国境なき記者団という国際組織が毎年発表している世界報道自由度ランキング(World Press Freedom Index)という指標があります。Wikipediaの文章から借用すると、「多元性、メディアの独立性、多様性、透明性、メディア環境と自己検閲、法的枠組み、透明性、ニュースと情報の生産を支えるインフラの質を評価基準」で、単純にいえば報道の自由度を検証する評価です。
この指標で評価されている180カ国のうち、カンボジアは2025年の順位が(括弧内は2024年)〈カッコ内は2023年〉161位(151位)〈147位〉、タイは85位(87位)〈106位〉です。もちろん順位の数字の少ない方が、報道の自由が確保されているということです。
この順位を第三者が見れば………、どうしたってタイの報道のほうがまだ信用がおけると考えてしまうとしても仕方がないでしょう。しかも2023年からの順位の移り変わりを見れば、カンボジアが後退傾向があり、タイが改善傾向があると言いたくなります。つまりカンボジアでは年々報道の自由が制限される傾向が強まり、タイでは逆に徐々に報道の自由が増す傾向がある。
この点でいえば、この紛争の有無にかかわらず両国の報道の質には差があるのです。自国の報道の自由が、国際的にかなり低い(180国中161位ですから!)ことは、カンボジアの人たちは知っていた方がいいだろうと思います。なぜ低いのか、それをここで分析することは遠慮しておきますけれど、状況を変えられるのは第一にはカンボジアの人たちだと私は思っています。
それでも、私個人の考えを書けば、可能ならタイ/カンボジア両国の報道を併記するのが望ましいと思います。そのうえで、読者がそれぞれ判断するのが一番よい。その点では、報道機関には、タイ政府の発表とカンボジア政府の発表をいつでも併記してほしいです。
国家と自分を同一視しない生き方を
それにつけても、インターネットが拡大することで、私たちが入手できる情報量はまるます多くなりました。そしてそれら情報が玉石混交であるのも確かです。どの情報を信じるか?
最終的には、信じるか、信じないかだとすれば、それはまるで信仰のようです。けれども、信仰となると、疑うことは難しい。やはりどんな情報も疑ってかかる、そういう姿勢が情報リタラシーを高めるためには必要なのです。そして、過去を見れば、特に他国との紛争時には、政府はときに真実を隠します。そのことは、どの社会に暮らしていても、心して生きていかなくてはいけないと思います。たとえ、真実を知ったところでどうしようもないとしても、国家と自分を同一化して生きていく、あるいはすべて受け身で生きていく、そういう生き方、私は嫌だなぁ。
そして、大事なのは停戦を継続することです。絶対に撃たない、そして軍を動かさない。停戦命令に従わずに、銃やロケット弾を撃ってしまった兵士・軍人を、それぞれの政府はきちんと処罰してほしい。そして、その処罰をきちんと発表するべきです。そのことを、それぞれの市民が自国政府に要求するという姿勢が大事だと私は思う。憎しみのアクセルを踏むことが、猛烈にバカでアホで下劣な行為であるということこそを、SNSで発信してほしい。
カンボジア人は平和を望んでいる、というメッセージを、タイの批判込みで書いてもダメです。「タイ軍は嘘をついている」というようなメッセージを添えて、「私たちカンボジア人は平和を望んでいる」と書くのは、結局は相手を批判することが目的になっているように私には思えます。目的が平和であるならば、批判はするべきではない。それは政府同士の交渉に任せておくしかないじゃないですか? タイ政府にとっては、カンボジア市民の批判は屁でもありません。タイ政府にとって怖いのは、タイ市民からの批判です。同様にカンボジア政府も、カンボジア市民からの批判が気になる。「タイを許すな」というような政府批判をするのは、「平和のため」には最悪です。もちろん、話し合いには限界がある。双方スッキリ気分にはけして至らない。そんなときは、結論を保留するのが知恵というものです。とりあえず、双方引いて時間を置くしかない。完全解決まで、長い時間がかかったって仕方がないことってあるのです。あなたたちの次の世代は、あなたたちよりも賢いでしょう、多分。
次世代に悪影響を残さないためにも、子どもたちの前で何を語るのか、大人の責任はとっても重要です。相手国の悪口をいえば、そりゃ子どもは真似をする。憎しみをあなたの世代で終わりにするのが、あなたの世代の次世代に対する責任というものなんじゃないですか?
本当に、これ以上いがみ合うのは止めて欲しい。恥ずかしいことです。お願いします。


















共感でしかなかったです。今更でしたがじっくり読ませていただきました。書いてくださってありがとうございます。クメール語でも書かれているとのことで、少しでも多くのカンボジアの方に届くと願って拡散しようと思います。カンボジアやタイ国内でも中立的・平和的な立場で影響力を持つ人たちってどれくらいいるのかなと気になりました。TikTokerや歌手などでも、中立で影響力のある人がいたらだいぶ違うのかなと。メディアリテラシーなどの観点はあるにせよ、多くの方の目に入るだけでも違うのかなと思いました。