(『世界は開いているから食べてみるのもいい 16歳の君に伝えたかったこと』からの蔵出しシリーズ。原文に、少し書き足したこともあります)
フィリピン南部ミンダナオ島で一番大きな町ダバオの教育事務所で働いていたときのこと(1998年から2001年にかけてのこと)。ダバオで借りていたアパートメントホテルの近くに、わりと大きな市場があった。その魚売り場の一角に、夕方になるとマグロの赤身の切れっ端が山積みされる店があった。パックなどにははいっていない。切れっ端がそのまま積まれて小さな山になっている。客は備え付けのビニールの手袋をはめて、その山から好きな小片をやはり備え付けのブラスチック袋に選び取り、重さで料金を払うという仕組みだった。
このマグロ、ダバオからさらに南に下ったジェネラルサントスという港町で水揚げされたものだ。ジェネラルサントスはマグロの水揚げ基地になっていて、良いマグロはそのまま、それほど大きくなければ現地の加工工場で柵に加工され、その多くが日本に空輸されていた。その柵をとったあとの端肉が、ダバオなどの近郊の町の市場に出回る。
様々なかたちに切られたマグロ肉の中をよく探すと、トロや大トロのような部分も見つかる。そんな端肉には筋があったりするけれど、丁寧に処理すれば上等のマグロ丼を食べることができた。
仕事が早めに片付いたときには、必ずといっていいほどこの市場によった。裸電球に照らされた市場は夕刻の活気に賑わっていて、そんな中、汗をかきながらマグロ肉の山をかきわけてこれはといった部位を探す。今思い出しても、口の中に唾が湧いてくる。
ダバオやジェネラルサントスといったミンダナオ島南東部は、マグロの供給地として以上に、日本での働き手――その多くが女性――や花嫁供給地としても知る人は知る場所だった。彼女たちは〝ジャパゆき〟とも呼ばれていた。19世紀後半に香港や東南アジアに主に娼婦として出稼ぎに出た日本女性を呼んだ〝カラ(唐)ゆき〟という言葉のもじりだ。私がダバオに滞在していた1990年代後半にはまだ興行ビザでの日本渡航が比較的簡単で、フィリピンパブなどで働く女性がこの地区から多く日本に渡っていた。そんなフィリピンからの女性労働者に対する性的搾取の問題が国際的な批判を浴び、日本政府が2000年代に入ってから入管法をより厳密に運用するようになったことで、今ではエンターテイナーとして日本で長期間働くことは難しくなっている。
そうなる以前、私がまだダバオにいたころ、若い友人ブライナーの妹がエンターテイナー養成所になかば騙されるように入所した。養成所は宿舎になっていて、中で過ごす女性たちは自由に外にでることはできない仕組みだった。そこでは女性たちに踊りや歌、化粧、そして日本語の研修が実施され、それに参加した女性たちの写真集が日本のプロモーターに渡る。プロモーターは写真を見て気に入った女性を日本に送り込む。その過程で多額の仲介料がやり取りされ、女性が運良く日本行きの航空券を手に入れたとしても、そのときには高額の借金を背負うことになる。この仲介料は現在の途上国から日本にやってくる海外技術研修生の派遣システムにもしっかり引き継がれている。
大人の、しかもフィリピンですでに同様の仕事についていた女性が、自分の判断で養成所を通じて日本での職を探すのであれば私があえて口出しすることはなかった。でもブライナーの妹はまだ10代の学生で、夜の仕事の経験もまったくなかった。単に母親に現金を渡したいという思いからだけで、そのエンターテイメント養成所に入ったのだ。その先の確固たる見通しや、それに対する強い覚悟があるわけでもなさそうだった。
兄として心配でたまらないブライナーに頼まれて、その養成所を訪ねて妹を引き取ることにした。強面が出てきて大変なことになるかと心配だったけれど、特に拒否されることもなく、ブライナーの母親が受け取った手付金を返すことで妹を引き取ることができた。悶着なしだったのは、日本人の私が一緒だったからなのか、単に運がよかっただけだったのか、それはわからない。
あるいは、ダバオ空港で飛行機の搭乗前に待合室に座っていると、後ろの席にいたダバオでのお見合いツアーに参加した日本人男性とその母親との会話が聞こえてきたこともあった。すでに意中の女性が決まっていたようで、ふたりはこの後の予定について真剣に話し合っていた。仲介業者に支払う謝金の工面を心配する息子に、父親を説得して農地を少し手放せばなんとかなるから心配するなと、母親が言い含めていた。
私の親友ジョジョの妹さんは、写真お見合いの末、日本の農家にお嫁に出た。けれども、夫となった男性も、その両親も、英語もフィリピン語もほとんど使えず、つまりコミュニケーションが取れなかった。部屋に引き込もってしまった花嫁の扱いを持て余したその家族は、数か月で彼女をフィリピンに送り返した。きっと気持ちの優しい人たちだったのではないかと、僕は想像する。そんな話もある。 みんな悲喜こもごもだ。
妹さんはその後フィリピンで新しい家族を得て、今は幸せに暮らしている。
ミンダナオ島の南東に位置するジェネラルサントス市で育ったやはり私の友人ミカエルは、ダバオで私立大学を卒業した後、ある時期、日本行きを夢見て上記のようなエンターテイナー養成所での研修に参加した。日本政府のビザ発給が厳しくなった直後のことだったので、結局ビザが出ずに日本行きはならなかったけれど、そのときに覚えた松田聖子の「青いサンゴ礁」や「赤いスイートピー」は、出稼ぎ先ドバイで働く今も、彼女のカラオケの得意曲だ。
ミカエルは、父親の違う二人の子どもをドバイ空港での出稼ぎで学校を卒業させた。子どもたちのそれぞれの父親はまったく関与していない。娘さんにはバレエダンスの教室にも小さいころから通わせ、娘さんはかなりセンスのあるダンサーに育ち、先年(2023年)には米国にも短期トレーニングに出かけたりしている。いやいや、まったくフィリピンの女性たちはたいしたものだ。
日本で働くことで富みをつかんだ女性は少なくない。凱旋し、地元に大きな家を建てたという話もよく聞いた。それを見て、同様の成功を夢見て他の家族が娘を日本に送り込もうとする。ブライナーの母親もそうだった。娘自身も家族のためというお題目で自分を無理やりにでも納得させる。もちろん、不運と失敗も山程ある。そして多くは、成功と不成功の中間だった。ものすごい不運ではなかったけれど、それほどの幸運もない。不運と幸運の間の灰色なところで、皆ジタバタとあがき、泣いたり笑ったりしてように私は感じた。
ブライナーの妹は、今は中東で家政婦の出稼ぎをしている。今でもときどきフェースブックで「元気?」とメッセージを送ってくれる。

















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