ぼくが始めて国境を越えたのは1988年の暮れ、数日の香港旅行、24歳のときだった。3泊4日ほどの、観光旅行だった。
現在使われている香港国際空港(チェクラップコク国際空港)が開港したのは、香港が英国から中国に返還された1997年の1年後の1998年だ。それ以前に使われていた香港空港は、啓徳空港という名で、九龍半島側の街のまん真ん中と思えるような場所にあった。海側から香港上空に入ってくるジェット機は、狭い香港上空をぐぅっと右旋回しながら啓徳空港の一本しかない滑走路に飛び込んでいく。当時からハブ空港として混雑していたけれど、世界で一番離発着が難しい空港のひとつともいわれていた。そのころは飛行機の着陸航路のすぐ真下に九龍城という巨大なビル状のスラム街があった。古い黒ずくめのスラムビルをかすめるように飛ぶ大きなジェット機は、香港の名物風景でもあった。
ぼくが使ったのは、夜遅くの便で、眼下に香港の灯りと暗闇が浮かび迫ってくるように思えた。到着した啓徳空港の通路のライトは薄暗く、タイ米を炊いたときに出るような独特の香りが大気にまとわりつき、ぼくには異国情緒たっぷりだった。
香港の町を連れ歩いてくれた現地ガイドはひと抱えもある木箱を肩にいつもかけていて、それは移動電話という当時の携帯電話だった。もちろんデジタルではなく、アナログの無線電話だ。
1988年というのは、中国への返還まで10年を切ったときだ。ガイドの説明によれば、返還に備えて家族の誰かを海外、特にカナダやオーストラリアといったビザの取りやすい英連邦諸国、に留学させ、そこで市民権を取らせることが流行っているということだった。中国政府は返還後も香港の経済システムを50年は変更しない一国二制度を公約していたけれど、多くの人が中国返還後の香港の行く末を案じているという。「北京のいっていることを信じられますか?歴史を学べば、簡単には信じることはできません」と、まだ20代のガイドはきっぱりといった。あれから30年が経ち、返還後の香港のたどっている道筋を振り返ると、ガイドのいったことがより真実味を持って迫ってくる。
そんな香港住民の切実さをよそに、ぼくは初めての海外の空気を思い切り味わった。ざわつく街頭をぶらつき、観光名所をめぐり、中華料理に舌鼓を打った。特に用もなく九龍半島と香港島を結ぶスターフェリーに乗り、夜風を楽しんだりもした。
香港では豪華な食事もしたけれど、一番印象に残っているのは朝に食べた中華粥だ。ぼくにとって粥とは風邪のときに母が作ってくれる白粥の印象しかなく、それは病気のときにだけに食べる非常食で、あまり好ましいものではなかった。しかし中華粥は美味しかった。鶏ガラや干し貝などで出汁をとったスープで炊いた粥に、肉やもやしがのった熱々を夢中で啜り込んだ。油条という中国式の細長い揚げパンをちぎって粥に混ぜると、香ばしさが加わり、より一層美味となることもこのときに初めて知った。

そんな旅の途中、ガイドブックに小さく紹介されていた一軒の茶店に入ったことがあった。観光客はめったに足を踏み入れない小さな路地にあったその店のなかには、多くの鳥籠が吊るされていた。鳥籠は客が持ち込んだもので、籠の中には九官鳥やメジロといったそれぞれご自慢の鳥が入っている。客たちはお茶を飲みながら、お互いの鳥を批評しあったり世間話に興じたりしているらしかった。ぼくも漢字で書かれたメニューからお茶を頼み、何をするでなくその場に身を置いた。意味のわからない言葉が飛び交う中に座っているのは、自分の知らない世界に迷い込んだようでわくわくした。しばらくすると、同行者が「なんか怖いから、もう出よう」といった。怖い?どうして、と思いつつ勘定を済ませ店を出た。
ぼくはそのころ、海外でボランティア活動をすることをすでに心のなかで計画していた。香港の親しみやすさは、そんなぼくの夢を強く勇気づけてくれた。香港の空気に身をゆだねながら、あぁ日本を出ても大丈夫だ、と思った。たった数日、しかも香港という観光都市で過ごしただけで大丈夫と思った自分の楽観を今なら笑えるけれど、あのときはその感覚がとても心地よかった。
一方で「もう出よう」といった同行者は、簡単には日本の鎧を脱ぎ捨てられなかったのかもしれなかった。もちろん、それはそれでよかった。ただ、その同行者の一言とそれを一瞬意外に思った自分。その人とぼくとのあいだの小さなすれ違い。そのことは、なぜか今でも忘れられずに覚えているんだ。


















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