モンゴルの首都ウランバートルへ高度を下げた飛行機の窓から見えたのは、見渡す限りの草原、作家の椎名誠が〝草の海〟[1]と呼んだのがなるほどもっともと思える緑の波だった。日本政府が計画していた学校校舎建設支援を実施するための調査団の一員として、二〇〇一年夏の一ヶ月を過ごしたモンゴルは、飛行機で飛び立てば青い海原が見えたフィリピンと比べると、何を見ても興味深かった。
ウランバートルは近代的なビルと遊牧民のゲル――モンゴル遊牧民が使う直径五メートル前後の円形移動式住居――が混在する不思議な町だったけれど、北に車で移動して調査を実施したダルハンやオルホンの町に行くと、不思議さはますます増した。北海道よりもずっと高い緯度にあるそこは夏至に近いその時季、夜一一時にようやく日が沈んだ。町は草の海に囲まれた島のような存在で、その島にはいかにも社会主義国でしたというかのように一糸乱れずの趣で並ぶ古いアパート群が独特の景観を作り出していた。
調査での私の役割は、その地域に新しい校舎が必要になるだけの子どもたちが将来にも渡って存在するかを確認することと、保護者や生徒を含む学校関係者から新校舎の必要性を聞き取ることにあった。子どもの数を確認するためには人口資料が必要で、そのために訪ねた先々で地方政府庁舎を訪ねた。
ダルハンでもオルホンでも、調査団は丁重にもてなされた。ダルハンの一夜、調査団は町の立派な公会堂に招かれ、町の自慢だという民芸団による音楽と踊りを堪能した。何百人も収容可能な大きなホールに、その夜の観客は私たち調査団数名と、町の教育行政関係者数名というとても豪華でもったいないコンサートだった。オルホンでは、調査中にあった週末に市長が郊外の別荘ゲルで昼食会を開いてくれた。そこでも公務員の音楽家が、モンゴルの伝統楽器〝馬頭琴〟を奏でてくれるのだ。思わぬ歓待ぶりに少々戸惑いながらも、野外で風に吹かれながら聞く馬頭琴の音色に身をゆだねた。
その快楽をより高めてくれたのが、ホルホグという料理だ。羊一頭を屠って、その肉、野菜、そして熱く焼いた石をアルミ容器に詰めて蒸し焼きにする遊牧民の名物料理だ。味付けは塩だけで単純なのだけれど、羊肉が大好きな私には最高のおもてなしだった。おそらく若い羊を調達してくれたのだろう、肉もとてもやわらかい。また肉汁を吸ったジャガイモやニンジンも捨てがたい。広い草原に座り込んで骨ごとむしゃぶるホルホグは、まさにモンゴルでなければ食せない贅沢品だった。
私たちが受けたのは〝接待〟だ。この段階ではすでに校舎建設は既定路線で、支援を前提にしての調査だったけれども、受益者から〝接待〟を受けることの是非は議論の余地はあるだろうと思う。君はどう思うかな。
車での長時間の移動は、ときには草原につづく轍だけを頼りに行くようなこともあり、大いに楽しいものだった。道沿いには遊牧民のゲルが点在し、羊や馬、ヤクなどの家畜が群れている。ちょっとした峠にはオボーと呼ばれるチベット仏教に関係した石積みとそれを取り巻く多くの旗があり、私たちが乗る車の運転手はオボーの近くを通過する度に道中の安全を祈って大きくクラクションを鳴らした。
その車の中で通訳のおじさんが大いに語ってくれたのが、当時日本でも話題になっていた兄弟横綱[2]の不仲問題だった。祖父に横綱、父は大関という名門出身の兄弟横綱の仲違いは日本でも週刊誌やワイドショーで取り上げられ、注目を浴びていたらしい。そしておじさんによれば、モンゴルではこの兄弟喧嘩をめぐって国中が噂話に興じているというのだ。二〇〇一年は、後にモンゴルから初めての横綱になる朝青龍[3]という相撲取りが入幕し、熱戦を繰り広げ始めた年だ。独自のモンゴル相撲が盛んなモンゴルで、日本相撲人気がいよいよ沸騰し始めた年だった。
しかし私を含め、調査団の一行はその横綱兄弟の喧嘩問題をよく知らなかった。つまり興味の外の出来事だったんだ。通訳のおじさんは、それが全く不満だった。おじさんによれば、問題は弟のわがままが第一の原因だけれど、兄弟の両親の対応も含めてモンゴルの中でも多くの意見が噴出しているとのことだった。私は窓から広がる広大な草の海の景色を楽しみながら、ときどきおじさんからこの問題の個人的見解を問われてどぎまぎした。
[1] 椎名誠/著『草の海 モンゴル奥地への旅』集英社 一九九二
[2] 若乃花(兄)と貴乃花(弟)
[3] 朝青龍 モンゴル出身。一九九九年に初土俵。二〇〇三年から二〇一〇年まで横綱(第六八代)を務めた。


















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