2025年現在の我が家の食事事情
私、そこそこの料理愛好家でございます。
我が家では、メインシェフは主に同居している姪っ子です。彼女が作るのは、お母さんから学んだごくごく普通のカンボジア家庭料理です。たいへんおいしゅうございます。
そして、週末には姪っ子夫婦は外食中心。となれば私が、私たち夫婦の分を料理します。サンワーが料理をすることは、ありません。彼女と一緒に暮らして10年以上が経ちますけれど、ふたりでいれば料理をするのは必ず私です。私の方がサンワーより料理好きなのですから致し方ありません。幸いサンワーさんはなんでも食べてくれます。もちろん彼女の嫌いなものは避けるようにしますけれど、はい、彼女はいい食べ手です。
普段私が料理を担当しないのには理由があります。なぜなら、姪っ子は私の料理が苦手とおっしゃるから。一時期私がスパイスを多用した料理を連発したのが良くなかったのです。後から知ったのですけれど、彼女はスターアニス(八角)の風味が苦手だったのです。さらに私はグローブやカルダモンをホール(粉ではなく、その形そのままという意味)で惜しげもなく突っ込むものですから、当然食事中に口の中でそれらのホールが噛みしめれたりしてしまうことがある。それが姪っ子には嫌だったみたいなのです。
そこから「オンムラ(むらおじさん)の料理は……、私には食べられない」ということになってしまい、現在に至るわけです。
もちろん、私がつくる料理のすべてが香辛料まみれということではありません。例えば、ざるそばや、トマトソーススパゲティなどは、なんとか食べてくれるのです。実際、現在では蕎麦やスパゲティは彼女自身が料理してます。技術移転成功。けれども、彼女が私の作るものに大いなる苦手意識を持ってしまったのは確かで……、まったく私の不徳の致すところであるわけです。
料理始めは高校のころ
私の料理歴は高校生のころまで遡ります。
私は物心ついたころから中学校1年生終了時まで、東京都、新宿から少し西に寄った住宅地、杉並区清水町三丁目で育ちました。小さな木造平屋の社宅で、今風に書けば昭和の香り満ちていて、最初はもちろんぼっとんトイレでしたし、玄関はドアではなく引き戸、ごくごく小さな庭には縁側もあって、縁側に面した部屋には雨戸もついていました。
玄関を入った土間(たたき)から高めの上がり框をあがったすぐ左手が便所。正面は障子引き取でつながる8畳部屋で、そこが子ども部屋でした。私と妹No.1の二段ベッドとタンス、本棚、私と妹それぞれの机、さらにアップライトのピアノが置いてあって、つまり歩く際にも身体を横にしなければいけないような過密状況でありました。
玄関を上がって2歩右手に歩けば、右手が小さな台所、正面に4.5畳につながる襖。台所を抜けた先に小さな風呂場があり、大人ひとりが入ればいっぱいの木製⁉ふろ桶がありました。4.5畳はちゃぶ台とテレビがある居間で、その居間に入って左手にすすめばすぐに6畳間があり、そこは両親と妹No.2が畳に毎夜布団を敷いて寝る場所でした。ふたつの部屋をつなぐ襖は就寝時間以外はいつも開けっ放しで、二部屋で一部屋というような感じです。先の8畳と、両親の寝室である6畳も襖で直接つながっているのですけれど、両方の襖に寄せて子ども部屋側には二段ベッドが、両親寝室側にはタンスが置かれているため、つまりいつも密閉されているのでした。
8畳と6畳は肩をならべて同じ小さな庭に面していて、二つの部屋は縁側でつながっているわけです。
私はこの小さな家で3歳から14歳の直前までの11年間を過ごしました。この間、台所で料理をした覚えは一切ありません。家事というものはほとんど手伝わなかったような気がします。当時、母が私に「男子、厨房に入らず」というようなことを口にした記憶もあります。夕食を終え食器が下げられると、妹1が、やがては妹2も狭い台所で洗い物などをやっていたのですけれど、長男“様”の私が同じことを命じられることはなかったのです。ふーむ、これは両親の、特に母の失態ではなかったかと、思ったりはしますね。彼女も時代のイドラからは自由ではなかったわけです。さらに長男として私同様“お殿様”扱いの幼少期を過ごした父も、男性優位主義者であった。それは彼らの保守性・人権意識の低さを攻めるのは酷と言うものなのだと理解しています。そして、私自身が性による社会的役割意識にガチガチに縛られた男児であったのです。
そんな私が料理を始めたのは、中学校2年生の春に父の地方転勤に同行せずに、杉並区のお隣である中野区の祖母(母方)の家に世話になった後のことでした。叔父(母の兄)一家も一緒なその家に1年半ほど同居した後、私はその家のすぐ近くにあった祖母のもつ学生向けアパートの一部屋に移って、高校、そしてその後1年の浪人生活を送ります。アパート、その名も長江荘、の5号室が私の大青春時代の基地であったのです。
長江荘時代も、朝夕の食事は祖母の家まで行って食べていました。例えば、高校で野球部の練習を終えて帰宅すれば午後8時ぐらいか。用意されたおかずで白米を食べるのですけれど、どんぶり一杯でおかずが無くなってしまうのです。けれども腹はまだ減っている。ご飯をよそる。けれどもおかずがない。あるいは定期試験勉強中の深夜、どうしても小腹が減る。夕ご飯の残りの白米はあるけれど、やっぱりおかずがない。そんなときにサバ缶(私の好みは、昔も今も味噌煮ではなく水煮です)をあける。やがてサバ缶とざく切りしたキャベツを炒める。どうせなら白米も一緒にしてわしわし炒める、醤油を回しかける、生卵を落とす、納豆も一緒にして炒める……、そんな風にして私は料理を始めたのでした。
さらに、印象深いのが古谷三敏が書いた『男のウンチク学』です。古谷三敏は、『ダメおやじ』、『レモンハート』、『寄席芸人伝』などで知られる漫画家です。『男のウンチク学』というような本を高校生のころから愛読しているというのが、いかにも昭和の学生っぽいわけですね。この中に書かれている、食(と酒)をめぐるちょっとした記述に私はずいぶんと影響を受けました。麺類はゆで過ぎては絶対にいけないとか、今も私の料理道に通じる教えです。アルデンテ(スパゲティは芯に髪の毛一本分ほど茹で残しをするぐらいで茹で上げよ!というアレです)という言葉も、この本で知りました。

その後、大学生以降には『クッキングパパ』も雑誌モーニング掲載当初から愛読し、荒岩さん(この漫画の主人公)の作るものにずいぶん影響を受けました。今調べると連載が始まったのは1985年、私が21歳の年です、から、このころにはすでに私は料理の道にちょっとは足を突っ込み始めていました。まだ無駄が多く出る、ずぶずぶ素人、他人にはなかなか食べさせられないという域でしたけれど。大学3年か4年かのときに、自宅にガールフレンドを呼んで両親に紹介したとき、前日からカレーを仕込んだのを覚えています。海鮮に手をだしたのですけれど、イカの火の入れ方がなんか上手くいかなくて、自分としては60~70点の出来栄えだったような記憶です。カレーのことは覚えているのですけれど、その食事会がどうだったかは全く記憶にないのですけれどね。

ベーコンとほうれん草のスパゲティから、40年かけて現在に至る
私はスパゲティをいろいろと違ったソースで日々楽しんでいるのです。海外で仕事をしているとき、たとえば最初の長期海外ケニアのときから、その後のフィリピン、カンボジア、そしてルワンダでも、白米を炊く以上にスパゲティをゆでることが多かったのです。最近も二夜連続でスパゲティでした。ひとつはベーコンもどき(これも豚バラ肉から私が自分で作成しました)を使ったトマトソース(トマト缶を煮詰めました)、もうひとつはガラッと趣向を変えて鶏むね肉とナス・玉ねぎ・ニンジンの甘酢あんかけソースとしました。
そんな私のスパゲティライフで忘れられない一皿が、高校当時に中野ブロードウェイにあったスパゲティ専門店で食べたベーコンとほうれん草のスパゲティです。
その店は小さなカウンターだけのお店で、ランチで800円ぐらいはしたのではないか。高校生には少々高級なお店でした。なにかの機会に、その店に入った。独りでした。
おそらく意図して調理する様子がよく見える席に座りました。注文を受けてすぐに麺をゆで始める。ニンニクと赤とうがらしをフライパンに放り込み、オリーブオイルで炒める。そこにベーコン投入。さらにほうれん草がはいり、軽く炒めて、多分白ワインをちゃっと香づけに入れて、バター、そこにゆで上がった麺を投入してさっと炒めて出してもらったスパゲティが、いやー、美味しかったのですよ。
それからしばらく、祖母の家でそのスパゲティを真似てずいぶんと作りました。ワインはないから料理酒を振りかけたりして。お店と同じほど美味しくは当然ならないわけですけれど、それでも、ベーコンとバターとニンニクが入っていれば、あとは麺の湯で加減さえ間違わなければそこそこ美味しくなるのは間違いなしのレシピじゃないですか。
とにかく食堂に入れば調理場を見ているのが大好きでした。そういえば、小学生ぐらいのころは、荻窪のごみごみした食料品街の中の小さな総菜やでカツを揚げたりするのを見ているのが好きでしたね。飽きずに見ていられた。あの頃から、そういう資質はあったのかもしれません。
高円寺図書館の帰りに、当時の彼女とよく一緒に食べた高円寺駅近くの“麦の家“という名のスパゲティ専門店では、タラコスパになにか緑色の粉を匙一杯入れている。あれはなんだろう???おそらく昆布茶だな、とか、だんだん鼻も利くようになっていくわけですね。店で見たら、自分で実際に真似てみる。そして、自分で作れば店で食べるよりも段違いで安く食せるわけですよ。それがねぇ、ますます自炊の魅力に輪をかけるわけです。外食よりも、自炊の方が、安くて美味しい、さらに外食では一皿では物足りないのが、自分で作ればいつも大盛り。そりゃ自炊に走るでしょう?
『男のウンチク学』ではそれこそ“男の料理”だった私のクッキングは、やがて実用性を兼ね備えた“家庭の料理”に徐々に進化していきます。
さらには、映画監督の伊丹十三氏のエッセイを読んで、料理しながら片付ける術を学んだのが私には大きかったです(『ヨーロッパ退屈日記』新潮文庫、の中のエッセイじゃないかなぁ、多分。でも間違っていたらごめんなさい)。 鍋も皿も包丁もまな板も、使ったそばからどんどん洗う。なるほど、まったくもって合理的です。今では、車イス者になったからこそますますその段どりには磨きがかかり、スパゲティで一皿つくれば、食後に出る洗い物は、最後にスパゲティとソースをあえて食卓まで持って行ったフライパンと、スパゲティを食したサンワーと私の皿2枚にフォーク2本だけ(洗いはサンワー担当でお願いしています、一人なら自分で洗いますよ)。すでに調理具類は洗って食器洗い置きに並び、さらにはガス周りもきちんと拭きあがっている、という徹底ぶりなのでございます。
スパゲティ、私はこう作っています。
私のスパゲティーは、最初にニンニクみじん切り多めをしっかり弱火で炒める。あとはなんでも適当に。塩味系にするか(ツナ缶と野菜あれこれというのが多いです、ミルクを加えるか(鮭が入るとこっち)、トマト中心か(ミートソースから、純トマトソースのみまで幅広し)、カレー系か(これはカレーライスを食して残りが出たとき)……。ソースの完成に合わせてスパゲティ(茹で時間9~10分を常用)を表記よりちょい短めに茹で上げて、それとソースを合わせる。この合わせるは、落合務シェフ(イタリア料理シェフではとっても著名な方)の本から大きな影響をうけていますので、「あえる」感覚です。麺をソースを作ったフライパンに移したら、炒めない。落合シェフに影響を受けているといっても、それほどソースの乳化には気合をいれてないし、バターは少な目で、粉チーズは高価なのであんまりつかえない。でも油は必ずバージンオリーブ油を炒めから使います。まぁまぁだいたいうまく仕上がっていると自負はしております。
どうしても踏み切れないのが、ソース作成とスパゲティ茹でを同時に同じフライパンの中でやってしまうという最近はやりのレシピ。スパゲティはどうしたってたっぷりのお湯で…という考えが心に沁み込んでしまっていて、作ってみればきっと特に問題なく美味しいとは解っていても、乾麺をソースに入れて煮るってのが出来ない。あと冷製パスタで、茹で上げたのを水で洗う……、これもなんかスパゲティに申し訳なくてできない。炊いたばかりの白米を水で洗えないでしょう、それと同じ感覚です。冷製パスタ美味しいだろうと思いつつ、未だに踏み出せない。共感してくださる方もいるんじゃないかと思うのですが、さて。
出されたモノはなんでも食べる、という躾を強く受けました。それは国際開発支援業界の仕事で役に立っていると感じます。
私自身、あちこちのさまざまな料理を、比較的多く体験している方だと思います。そのときに役に立っているのは、出されたものはなんでも残さず食べなくてはいけない、という躾を受けたこと。
小学生のころ、それほど得意ではなかったワカメの酢の物、自分用の小皿に盛られるのですけれど、それになかなか箸が進まない。ついつい後回しにして残していると、「食べるまでテレビはダメ!」と母が見ていたテレビのスイッチを切る。それでメソメソ泣きながらワカメの酢の物をすすった覚えがあります。食べ終わるまでは、再びテレビのスイッチをいれることは許されなかった。酢の物、いまなら全然問題なく食べられます。というか、出されて食べられないものは特にないと思います。苦手で好きでないものはもちろんあるでしょうけれど、たとえばタガメとか特に好きじゃないし、でも出されればタガメのひとつふたつみっつは屁でもない。それも、あのワカメの酢の物を強制された成果だろうと感じるのです。
でもじゃぁ、今、幼い子らに、泣いてまで嫌なものを強制するかと問われれば、無理してまで食べなくてもいいんじゃない?と思う。一方で、食べられないものがある方々を目の前にすると、なんかもったいないなぁ、そのことで損していることあるんじゃないかなぁ、なんて思ってしまいます。
食べ物って、保守性がすごく強く表出されるものだと感じます。味や食材が変わると、心の中の警戒警報が鳴り響く。そこを乗り越えて行く人もいれば、そこで立ち止まり続けてしまう人もいる。
南国フルーツの王様であるドリアン、あれは臭くてダメだなぁ。エチオピアでは主食であるインジェラ、あれは見た目は雑巾だし味はすっぱく腐っているみたいでダメだなぁ。台湾ではお馴染みの豚バラ肉甘辛煮込みを白米にのせた魯肉飯、あれは八角の匂いが強くてダメだなぁ。
さらに屋台系はなんかお皿やコップが汚い気がしてダメだなぁ。水道の蛇口から出てくる水を直接飲むのは、無理だなぁ。このハンバーグはお母さんがつくってくれたのとなんか違う味で、食べたくないなぁ。
そんな毎日行われる食事での保守性は、特に子どもはとっても強く、そしてそれをそのまま引きずってしまう大人も散見します。国際支援業界でも、出張時にはトランクに日本食をぎっちりつめて飛行機に乗り、現地では長期レンタルのアパートでその日本食を使って自炊、たまの外食も行くのは日本食レストランだけ、という人も本当におられる。もちろん、そこに良い悪いはありません。最も自分の実力を発揮できるように、日々過ごすのが一番よろしい。
けれども、現地の人たちの生活を知り、親しくなり、そこから滲みだす現実や状況をくみ取っていくためには、どうしたって彼らと一緒に同じものを飲み食いしなければ、なんて私は思っているのです。そして、そのやり方からすれば、「日本食しか無理」というのでは、どうして彼らを理解できるのですか、と呟きたくなることは、ある。
でも、それはもう人それぞれ、自分でより良い方法を見つけるしかないのだろうなぁ。たとえば辛いのが苦手な人に、スリランカの村々で供される辛い辛いスリランカカレーを楽しく食せっていわれてもそれはやっぱり無理なのだと思うのです。タイやカンボジアの生牛肉のサラダも、生肉を食べつけていなければ厳しいし、生肉には実際サナダムシなどの寄生虫もいることがあるしなぁ(私、サナダムシと数年間共に暮らしていたことがあります)。無理はしないほうがいいわけで。下痢して病気してたら、仕事になんない。でも、下痢を繰り返しつつ現地食に挑戦し続け、数年後には下痢を克服してしまうような人も、カンボジアで一緒にお仕事をした方々の中にはおられる。そんな人たちは、やっぱり良いお仕事をされている印象が強いし、私はそれを尊敬のまなざしで見つめているのです。
そういえば、1990年代初頭に西アフリカのニジェールで農地開発支援にかかわっていた私の父が言っていた次ような言葉も私に多少は影響を与えているかもしれません。
「農家を訪問すると、コップ一杯の水を出してくれる。その水を日差しにかざしてみれば、キラキラと細かい砂がまじっているのが見える。もしかしたら細菌もはいっているだろう。一緒に行った日本の人たちの中には、その水を飲まない人もいる。けれども、その農家の人たちの気持ちを考えると、ぼくはそのコップに口をつけずに返すってことができないんだよねぇ」
ちなみに父はニジェールでの仕事の最中に急性肝炎にかかっています。これは酒の飲み過ぎも影響しているかと想像します。あと、父がこの手の国際開発の分野で仕事をするようになったのは、彼が勤めていた農用地開発公団という半官半民の組織が日本国内での仕事が少なくなって政府に潰される一歩手前で、国際開発に活路を開いた後のことです。彼自身が望んでその仕事をしたわけではない。さらにそれは(息子である)私が青年海外協力隊に進んだこととはまったく無関係なできごとでした(私は父の背中を見て、国際開発支援の分野に進んだわけではありません。私から見ると、父の支援協力はとっても素人臭い面があったように感じたのですけれど、それは彼がもともと国際開発支援をするつもりではなかったことも一因あったのだろうと今なら思います、一応念のため書いときます)。
そんなわけで、開発支援において現地食にこだわることは、あくまで自らの健康を維持することが大前提でなければいけません。けれども、万が一現地の食事になじめないとしても、それを乗り越えようとする意志のようなものは、きっと大事だと私は思う。それはひとつ間違うと“昭和の精神論”と一笑にふされてしまう可能性もあり、そして精神論のあつかいは注意が必要ということを理解したうえで書くのです。食べられないのは、援助においてはハンディなのです。
食の保守性をどう乗り越えて行くか
食を乗り越えるというのは、世界をどう理解するかとも関係しているように感じます。
今たまたま読んでいる四方田犬彦著『サレ・エ・ペペ』(工作舎 2023)によれば、イタリアでは、イタリア料理なんてものはないのだそうです。以下をお読みください。
イタリアの都市を廻って気付くのは、外国料理店やファストフード店をほとんど見かけないことだ。フランス料理のレストランなどわが国には一軒もないと豪語するのがイタリア人である。歴史的経緯を考えるとそれには理由がないわけではないが、それにしても一般のイタリア人は職にきわめて保守的である。
彼らは基本的に母親の作った料理の枠を超えて、未知の料理に手を出すことをしない。おのずから教理はすべて地方料理、郷土料理となる。トリノ人はヴェネチア人の好きなイカの墨のパスタを食べようとしないし、ナポリの蛸料理についてはその存在も知らないかもしれない。逆にナポリ人は牛の骨の髄をスプーンで掬って食べるというミラノ料理を理解できないだろうし、北部山岳地帯の川魚料理に関心を寄せることもないだろう。イタリア料理なるものは存在しない。人々が毎日食べているのはヴェネチア料理であり、ミラノ料理、ナポリ料理であって、そのどれもが平等にメニューに掲載されているリストランテがあるとしたら、観光地で外国人観光客のために英語メニューをそろえているところくらいのものだろう。日本人はイタリア人というと陽気で開放的だというイメージをもっているが、それはステレオタイプの偏見にすぎない。わたしの知るかぎり、彼らは日本人と比較にならないくらい、食において保守的である。いや、言葉を換えていうならば、日本的な食のスノビズムとは縁がなく、家庭料理とその伝統に頑固なまでに固執している。(前掲書99~100ページ)
ふーむ。スノビズムをデジタル大辞泉でひけば、「紳士・教養人を気どったきざな俗物的態度。または、流行を追う俗物根性」と記されています。この四方田の文章は、私には少々苦手な○○人という大きな複数名詞を主語とした文章が並び、ちょっと食傷気味な感じもしますけれど、とにかくイタリアの家庭料理中心主義の力強さを感じます。
さて、ここで書かれたような“食において保守的”な人たちは世界をどう理解するのか?
以前、数カ国を共に旅行したことのあるフィリピンの友人は、当初、どこへいっても食事には白米を強く欲しました。カンボジアの人にも同様の傾向があるように感じますけれど、フィリピンの人たちからも「白米絶対主義」のようなものを感じます。白米を食べないと、どうしても食事をした気分になれない。フラストレーションがたまる。
その彼女に、「せっかくフィリピン世界を離れて別世界に来たのだから、別世界の食べ物も楽しんでみたらどうか? まったく箸もつけないというのは、よろしくないと思う」という主旨のことを伝えたことがあります。その後、彼女の姿勢は変わりましたね。がんばって白米無しの食事を楽しむようになりました。
そこに良し悪しは特にはないと思います。個人差もある。けれども、彼女の場合は、旅の楽しみ方をひとつ覚えた。だいたい現地食派の私と旅してしまったわけです。そこは運命。その後、彼女はどこへ出かけて行ってもその土地のものを食することを自分に課しているそうで、そして後日それを楽しそうに語ったりしてくれたのです。
私の告げた一言は余計なお世話であったと思う。けれども、まぁこの場合は、わりと楽しい変化を彼女にもたらしてくれた事例だったようです。
おそらく、故郷の家庭料理への固執と並列させて、他食へのアプローチは技術として可能なのだろうと私は考えています。そのためにも、幼児時代の偏食はないにこしたことはないのでしょう。
そして誰しも何事にも向き不向きがあるとすれば、私にとっては国際開発支援はわりと向いている食い扶持だったのではないかとも感じています。そして、食べたくなれば、食べたいものを自分で作って食べる。そのことでフラストレーションが減れば、それに越したことはないのです。そのためには、料理の腕も、さらには応用力も、ないよりはあったほうが自らを救う、そんなこともあったりするのかな。
料理って絵だよね。水墨画もあれば、カラフルな絵もある。その筆遣いで、ゴッホのような実物以上に生生しいヒマワリがあれば、ピカソの描く立体的で分解的な女性もあるように、料理にもそれらの違いに類する個性があれこれある。そこがとっても楽しいのですよねぇ。

















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