『マルコムX』(1992)という映画の中で、黒人への人種差別に対して戦うマルコムXに対して、その活動に共鳴した若い白人女性が「私にも手伝わせてほしい」と言い寄るシーンがあったはずだ。それに対してマルコムX(デンゼルワシントンが演じている)は、「必要ない」とまったく相手にしない[1]。そのシーンを見たときには、マルコムXに対して「もう少し協調できればよかったのに」と当時のぼくは思った覚えがある。
20年ほど前のこと。「夫婦別姓」を法的に認めることを活動していた女性弁護士の講演でのこと。実際にファミリーネームを変えるのは女性が95%以上という現実を前に、女性の権利拡大を強く前面に押し出した主張をした彼女。その主旨はわかるものの「男だから」という社会的な性的役割に対して苦しむ男性もいるのだから「そんな男性との共闘を」という発言を、彼女に対してぼくはしたことがある。その際の彼女の返答は「(我々に共闘を求めるのではなく)男性は男性でまず勝手にやって」というとても素っ気ないものだった。
そのときに、あぁ、そうかぁ、と思った。つまり「共闘を」と言ったぼくは、マルコムXの映画で「手伝わせてほしい」といった白人だった。そして、マルコムXの拒絶は、「ならばまずは白人の中で(勝手に)人種差別反対を訴えろ」ということなんだと気がついたんだ。つまり、迫害されている側にとって、迫害している側からの「共闘」の申し出ほど、いかがわしいものはない。
自分が迫害する側の存在なんだということがどっしりと押し寄せてきて、講演の帰り道、ぼくはすっかりしょげ返っていたはずだ。
女性の権利拡大を訴える“女性”にとって、「男性も含めた共闘を」という男(ぼく)からの発言は、迫害者の「いい気な申し出」に過ぎなかった。しかも、彼女が女性たちに「自分たちの権利を主張しよう」と訴えるのと同じように、男性にたちに「男らしさから脱却しよう」という運動を、ぼく自身していたわけでもない(当時、事実婚で、夫婦別姓の中に身をおいてはいたけれど)。そんな傍観者が、「男性との共闘を」なんてテレビのコメンテーターみたいなことを言うのは、主体的に活動している彼女からしてみれば、脳天気な戯言にしか聞こえないのは、もっともなことだ、と、ぼくはつくづく思ったんだ。
1964年(昭和39年)に生まれたぼくには、ふたりの妹がいる。彼女たちが小学生になれば、母に命じられて食器の片付けなどの家事をやっていたのに対して、ぼくがそれを命じられたことはなかった。つまり、ぼくは長男様として、男尊女卑の価値観を身につけていったわけです。小学校のとき、ぼくが女の子に暴力をふるわなかったのは、「女は守るべきもの」「女は弱いもの」という尊大な男目線が、他の子よりもむしろ強かったせいだったろうと思う。
さらに成長して、高校生のとき、野球部の練習を終えての帰り道、チームメイトと自転車をこいで帰る夜道、「やっぱり結婚したら女性には家庭に入って育児をやってほしいよなぁ」なんてことを、この口で言ったことも確かに覚えている。
そんな価値観がゆらいでいったのは、何が理由だったんだろう。ひとつは、好きな女性ができて、その人と互いの夢や希望を語り、彼女の自己実現を応援したいと心底思ったことが、やはり大きな転機だったのだろうと思う。おそらく、彼女からぼくへの“教育”もあったのだろう。彼女が努力して得た知識や技術や資格やが、結婚や育児で“無駄”になるのはオカシイというのは、とても素直に受け入れられた。つまり、父親世代のように家長然とふんぞり返っていては、彼女に愛想を尽かされるのは、もはや自明のことだった。
そしてぼくが“開発”の「業界」に足を踏み入れた1990年ごろ、そこではWIDからGADへの価値観の移行が進んでいたときだった。WIDとはWomen in Developmentの略で「女性と開発」、それは1970年代に始まった「女性を受益者としてだけではなく、開発の主体としてとらえる」という考えに始まっている。そして、GADとはGender and Developmentの略で「ジェンダーと開発」、つまり女性だけに焦点をあてたWIDの限界を受けて、社会的性格差という構造そのものにチャレンジすることの重要さを強く認識した1980年代に広まっていった言葉だった。もちろん、WID?GAD?というのが、ぼくの最初の印象だ。1994年に受けた国際協力に関する研修で、WIDとGADについて初めてきちんと学んだ覚えはあるのだけれど、それはまだほんのご挨拶ていどのことだったように思う。
ぼくが上野千鶴子さんの著作を積極的に手にとるようになったのは、多分、それ以降だったろう。調べてみると、『家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店)は1990年、『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)は1994年、『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)は1998年の出版だ。上野千鶴子を知るためには欠かせない遥洋子の傑作名著『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(筑摩書房)は2000年に出ている。そうやって、じわじわとフェミニズムに、ぼくはぼくなりに、共感し理解していった。

こうやって今、改めて時系列で眺めてみると、ぼくが弁護士から「勝手にどうぞ」と言われたことは、ぼくの学びの背中を強く押すきっかけになったことが、よく分かる。そして、あのとき、どうして彼女がそう言ったのかも。
もう10年以上前のことだと思うけれど、ぼくはあるとき「養ってやるって言ってみろ!」とある人から罵倒されたことがある。(「彼女に愛想を尽かされるのは、もはや自明のことだった」と書いた“彼女”とは別人です。)でも、ぼくにはそれは口にできなかった。もう無理だった。経済的に支え合うことは可能だけれど、「養ってやる」は、男だからこそもう言えなかった。
(その人の「養ってやるって言ってみろ!」という発言の背景には、仕事以外の「子育て」の部分が、ぼくとその人でうまく分担できず、ぼくは「単身赴任」が多く、その人にばかり負担が大きかったことは否定できない。これは、書いておかなくてはいけない、です。)
大学生のころ、ぼくのカラオケの愛唱歌は河島英五の「酒と泪と男と女」だった。さだまさしの「関白宣言」を歌ったこともある。でも、やっぱり今はもう歌えないなぁ。それを歌うことは、どこか裏切り行為になっちゃうような気がしちゃうのだ。誰に、なんに対する裏切り?
ジェンダー格差と闘ってきた人たち?
GADまでにたどりついた人々が切り開いてきた歴史?
「酒と泪と男と女」を歌っていたころからずいぶん遠くまできてしまった自分の越境の軌跡?
きっと、その全部なんだろうと思う。
(えーと、ひとりだけのときは内緒で歌うかもしれません。)
[1] 映画では、後半にマルコムXがメッカ巡礼を通して「肌の色」を超えたより普遍的な価値観に目覚める過程が描かれる。そして、中盤に描かれた白人女性への強い拒絶は、マルコムXの「怒り」を表すとともに、後半で描かれる「普遍的な価値観」を強調する役割を担っていた、つまりそのときのマルコムXの「偏狭さ」をも象徴するエピソードになっていた(とぼくは思う)。


















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