アルンダティロイが書くインドの事例を読んでやっぱり辛くなる(さしずめインテリの巻 おまけ)

アルンダティロイ氏による著作の訳本たち。どの本も、熱量が高く、そして辛い。

 アルンダティロイ(Arundhati Roy)。作家。1961年インド北東部メーガーラヤ州生まれ。インド南部ケーララ州出身のシリア教会キリスト教徒で女性権利運動家である母親を持ち、その母の故郷で育つ。ニューデリーで建築学を学び、その後映画製作や脚本作成の世界に転身。1996年に半自叙伝的小説『小さき者たちの神』を発表し、翌年世界的な権威のある文学賞のひとつである英国のブッカー賞を受賞する。その他の著作(翻訳されているもの)に『私の愛したインド』、『帝国を壊すために』、『誇りと抵抗 権力政治を葬る道のり』、『民主主義のあとに生き残るものは』、『ゲリラと森を行く』など。

 ブッカー賞を受賞した『小さき者たちの神』以外の上記の翻訳本は、すべてエッセイや講演記録、さらには自らダム建設で沈む村々を訪ねて書かれたノンフィクションです。
 これらの書物で明示される彼女の関心は、彼女の生まれたインドで強まるヒンドゥー中心主義(その価値観によってインド国内のイスラム教徒が迫害されている)、グローバリズム・経済開発の名のもとに進む大規模ダム建設(その際に移住を迫られる人たちへの補償はほとんどない!?)、さらには2001年の米国同時多発テロ後の子ブッシュ政権によるアフガニスタンやイラクへの“懲罰的軍事侵攻”への精一杯の批判に費やされています。

 

『ゲリラと森を行く』の表紙で笑顔を見せている彼女は、カムラという名で登場する“人民政府”のゲリラ兵士。もしかしたら、彼女はすでに逮捕され、拷問され、強姦され、あるいは撃たれてすでにこの世にいないのかもしれない。ロイ氏は本文の中で次のように書いています(71ページ)。《わたしは今でもずっと、毎日、カムラ同士のことを考える。彼女は17歳。手製のピストルを腰に装着している。ああ、あの笑顔ときたら。でも警察が彼女を見つけたら、必ず殺されてしまう。まず強姦するかもしれない。尋問すらないだろう。だって「国内の治安の脅威」なのだから。》ロイがカムラと森で出会ったのは2010年です。カムラが生きていたとしたら、今年2023年には30歳になるはず。今もゲリラとして森での生活・闘いを続けているのか、それともどこかで平穏に静かに暮らしているのか? 

ダムはダムそのものが目的化する

 ロイの著作を読むまで、インドが世界有数の小中大を合わせたダムの計画・建設・運用が進んでいる国であることを私は知りませんでした。ただ、あれだけの広さを持つ国土、あれだけの人口を持つ国家であれば、それは驚くに当たらないことなのかもしれません。
 ロイの著作によれば、これらのダムは結果として農業促進や水道水普及につながっていないとのことです。一方で、ダムによって水没する地域に暮らす人々(その多くが、カースト制度で下部に位置づけられる人たち、および先住民の人たち)の移住のための施策はほとんど整備されないままであるとのことです(ロイがこれらの著作を書いた2000年代初頭において、これまでのダム建設において実際どれぐらいの人たちが住居や土地を失ったかのデータすらない)。
 その結果、ダム計画・建設に対して広範囲の抵抗運動が組織されている事例がある。それらの抵抗運動を組織しているのはマオイストと呼ばれる「毛沢東主義」であることも、私はロイの著作で知りました。
 それまではマオイストと言えば、ネパールでの反政府運動のことしか頭にありませんでした。そうか、インドでも、あるのか。マオイストと聞いて眉をしかめる方もおられるでしょう。マオイスト・毛沢東主義に関しては、ロイはけして毛沢東主義の信仰者ではない、と書くにとどめておきます。

 ダム建設に関するロイの記述を読んでいて思い出すのは、日本のダム建設の問題点を書いた本多勝一の多くの記事・著作のことでした。日本のダム建設の象徴として長良川河口ダム(河口堰)にふれた記事の中から、以下ちょい抜粋。

 ダム建設の当初の目的の背景が消えると、目的を変更してもダム建設を強行する。たとえば二部谷ダム(北海道・日高)は、苫東工業団地のための工業用水だけが目的だったのに、苫東計画がつぶれてもダム計画を中止せず、目的を発電・治水・農業用水その他に変更して強行建設中である。
 目的がなくなっても強引に建設すること。これはなぜなのか、建設省のいかなる回答も私たちをなっとくさせたことがない。なぜか。要するに建設省の役人(この場合いわゆるキャリア官僚)どものカネモウケが目的だから、かれらは回答できないのだ。自分たちが税金でオイシイ生活をすること。在職中はもちろん、天下りなどで土建業界で退任後のオイシイ生活が待っていること。これが「合法的汚職」の真の原因である。
(朝日新聞社1996『本多勝一集25』354ページより、初出は『週刊金曜日』1995年3月3日号「建設省は要するにカネモウケが目的なのだ、とハッキリ言おう」という記事)

 上記、少々古い記事ではありますけれど。そして、この日本の事例として書かれていることとまったく同じことが、あるいはより大々的なことがダムをめぐって起こっているのだということがロイの記事からは読み取れます。インドでも、ダム建設の目的はさまざま変更されるのです。農業用水確保、農地確保、水道や電力の確保、等々。そして、本多の記事での“建設省”は、インドの中央政府・地方自治体、さらには(開発支援にかかわる者としては同業者でもある)世界銀行、そして大規模な複合企業体……。それらが、やっぱりダム建設そのものが目的化したダム建設に膨大な予算をつぎ込む。その多くが、借款として長い期間インドが借金として抱えるのです。ダム建設を促進する人たちには、返済責任はないのです。
 ダム建設の持つこのような“体質”は、世界共通のことだと理解してけして間違いではないのだろうと、来年60歳になる私は判断しています。生きているうちに、その判断が覆ることがあれば、建設省の人たちにはそっと謝らなくちゃいけないかしら、ね。さらには、もちろんダム建設に関して多くの努力があるわけです。それらのすべてがブルシットジョブなのだろうか?少々冷や汗が流れるような、辛い問いです。

ガンジーもマンデラも、そして民主主義も……

 そして、ロイの著作を読むと、冷や汗タラタラの問いが次々と上がってくるのです。
 ロイの鋭く忌憚のない、日本社会的にいえば「空気の読めない」記述は、通常?あまり批判の対象とはならない人や主義にまで遠慮なく切り込みます。
 例えば、マハトマガンジーは結局は理想主義に終始し結果としてインドのヒンドゥー中心主義を容認することになったし、ネルソンマンデラは南アをグローバリズムの草刈り場としてしまったと。つまりは、どこに軸足を置いて彼らを見るのかということが問われているのだろうと感じます。ヒンドゥー中心主義の犠牲者となったインドのムスリムの人たち、南アのひどい経済格差に苦しむ人たちから見れば、ロイのガンジー翁やマンデラ翁への言及は当然でもあるのです。

 彼女の視点は、どうしたって民主主義にも厳しいものです。選挙とは、結局は資本主義における強者に利する制度ではないかということです。代替案が示されるわけではありません。でも、カネモウケする側がマスコミをコントロールしている現状で、選挙も結局は「買収」されてしまうというインドでの事実が、淡々と描かれるのです。そして、それはインドだけで起こっていることではないのです。それを否定することは、私にはむずかしい。腕を組んで、ウ~ムととりあえずは唸る。でも唸るだけじゃダメなわけで。なによりも嫌なのは、直接の暴力(斧や、銃や、拳固や)を振るうのは結局は金で雇われた人たちであって(たとえば軍人や警察官だって、その多くは経済弱者であるわけです)、弱者同士が傷つけあうシーンが最前線では繰り返される、そのことです。それは、あっちこっちでそうですよ。ミャンマーだって、シリアだって、沖縄だって。

 とにかく、インテリであるロイの目線は、インテリの立場にとどまらない。彼女自身が何かの責任に追い立てられるように、『ゲリラと森を行く』の表紙に写るカムラの立場から世界を再認識しようとするのです。インテリ寅さんの道をロイは歩く。

 「さしずめインテリ」の前々回の当ブログの投稿で、インテリとエリートについてちょっとだけ書きました。改めて書くと、エリートは単にインテリの中での優れた人ということではなく、インテリの中で国家権力・経済権力を動かす側に立つ人をさすのです。エリートと権力は、どうしても重なる。その点では、ロイはエリートではありえない。
 その点で書けば、インテリ寅さんはあり得ても、エリート寅さんは無理なのです。それはけしてありえない。権力者になった寅さんは、もう絶対に寅さんではありえないのです。

中間に立つことの無意味さ

 民主主義と資本主義の抱える問題、課題?にはどうしたって頭を抱えるわけですけれど、そして嫌で嫌で仕方がないのは、ロイが書く実際に起こっている暴力のことです。
 ダム建設に反旗を翻すマオイストに対して、インド政府は内戦に臨むような体制で、軍や警察を動員しました。そして、そこでは暴行・拷問、さらには女性への強姦、そして多くの殺人が起こっている。マオイスト側による暴力、殺人も起こります。つまりは暴力の応酬。
 念のために書いておけば、それらはけして喧嘩両成敗では私は語れない、語りたくない。パレスチナで起こっていることと重なりますけれど、マオイストが軍や警察に対して1の暴力を働けば、それは10倍100倍となって返ってくる。そういえば、米国での2001年のニューヨーク貿易ビル崩壊の犠牲者2,763人(Wikipedia「アメリカ同時多発テロ事件」の項より)に対して、2001年に始まった米国連合軍のアフガニスタンへの懲罰戦争によるアフガニスタンでの死者は2021年4月時点で17万1,000〜17万4,000人(Wikipedia 「アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)」の項より)に達することも思い出すことになります。

 「確かに表紙にあるカムラの笑顔は魅力的だし、平和的だ。けれども、カムラも銃を持ち、人と殺す立場にもあるのだ」

 という声はありえるでしょう。そして、その声を無視することはよくないのでしょう。けれども、けれども……。ロイを読むということは、やっぱりどうしたってカムラに軸足を置いて考えてみたい、ということなのです。けして二つのうちのひとつを選ぶということではないけれど、けれど「中間」に立つことから始めましょう、ということでもないはず。

 道の真ん中を歩いていたはずなのに、知らず知らず右の右側が拡張されて、気がついたら道の左側を歩いていた。そうしたら、自分ももう少し右側にそれないと真ん中から外れていくわけです。そういうこと、多いのじゃないかしら。もちろん、上記の比喩は、道が左側に拡張されることもあるわけでしょうけれど。
 やっぱり、どこに軸足を置くかだよなぁ、一インテリとしては、とにかくそんなふうに考えるのです。

 調べてみると、ロイは2023年となった今も、殺されることなく闘い続けています。国際的に著名であることは、少なからず彼女の命を守ることにつながっているはずです。でもカムラは…、わかりません。無名であること、これまでどれだけ無名のまま不必要に?理不尽に?殺された人たちがいるのか。どうして、その一員に自分がならないと断言できるのだろうか?
 もはや、そのことを避けようとするのは、あまり潔いとは思えない。粛々と受け入れる、多数の中の一人として、それしかないだろうな、そのときが来てしまったら。違うかなぁ。

 

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