信仰心とか………、そしてガザ………    だからせめて書く、だけどせめて書く

カンボジア コンポンチュナンの港近く ネアックターと呼ばれる精霊たち


 

 

4件のコメント

いつも興味深く読ませていただいています。

全くおっしゃる通り、ホロコーストで散々酷い目にあって来た人達が一たび力を持ち、多少の大義名分が有れば他者に対して同じような事をするのは歴史の皮肉と言うか、人間の悲しい性とも感じます。
オスロ合意でノーベル平和賞もらったのは何だったのか、あの時もそんなに簡単に解決するものかとは思いましたが。。

色々な国に行き個人レベルで人々に接すれば、(一部の犯罪者や根っからの悪人などの例外を除けば)世界のほとんどの人が平和で穏やかに暮らす事を望んでいるわけで、それが国やイデオロギー、宗教などの要素が絡むと途端に集団として醜い行動に出てしまう。

遠く地球の外から眺めたら何と馬鹿なことをやっているのかと思う事でしょう。そしてこの状況に対する無力感も同感です。せめて生のある限りしっかり見て、考えて行きたいと思っています。(同級生I)

YIさま  同級生I……、どなたかなぁ、と。まったくわからないまま返信しますけれど、またそれもよし。

オスロ合意の後、イスラエルは新たな入植を止める政策をまったくとりませんでした。
その後、ガザからは撤退しますけれど、それも平和目的ではなく、さらにガザは封鎖されますます困窮しました。
イスラエル政府がもともとパレスチナ国家との共存を模索していたのではない!ということ、それが
オスロ合意への現在からの歴史的評価なのだ、ということも読み継いだ本から理解できました。
日本政府は、オスロ合意以降は、米国政府に追随でイスラエル擁護の側に立ち続けていますね。
それも、日本国政府の発行するパスポートを所有する者としては、悲しい。

もともとノーベル賞がかなり政治的なもので。特に平和賞は……、ダメダメなことが多いようです。
イスラエル政府のラビン首相とペレス外相、 パレスチナ解放機構 (PLO)の アラファト 議長の3名でしたか。
ラビンさんはイスラエル市民の若者によって暗殺されていますね。
もしかしたら、彼が生きていれば、また少し違ったことが起こったのか?
でも、おそらく大きな流れは変わらなかったと想像します。イスラエルは、何か市民・社会の中で
革命的な意識変化・価値変化が起こらないと、変わらない。だれが米国の大統領になっても
(オバマでも、トランプでも)大きな意味での米国の犯罪性が止まらないのと同じだろうなぁ
そんなふうに考えています。とにかく、ノーベル平和賞は、ダメダメなのが多い。

そうですよね、でもイスラエル右派も「平和で穏やかに暮らす事を望む」から
パレスチナの先住民を弾圧できる。自分たちの平和のために、殺す。
自分の愛する大切な何かを守るために、殺す。それが出来ていしまう。

集団の怖さなのか? それもあるでしょう。
人間の悲しい性なのか? それもありそう。でも、どちらも克服し乗り越えられるものとも
感じます。実例はいくらでもある。イスラエルがその実例に並べないはずはない。

いつも読んでくださってありがとうございます。
もう少し、読者数を増やせるといいのだけれど、なかなかなぁ。
またお茶請けに、寄ってください。どうぞよろしくお願いします。

村山哲也@プノンペン 

 私は文章力が無いというよりは確実な知識が少ない。人間の古代史、近代史、現代史についてそれらの真実の歴史の量のほとんどを把握できていないが、人が人に銃口を向けることは個人レベルでも、国家レベルでも許されないことだと自信を持って思う。無力ではあっても私はこういう価値観で生きている。何の働きかけも出来ないということと、無関心であることとは違うと思う。
 私はもう傘寿に近い老人です。青年期からささやかに”世直し” 活動などによろよろしながら関わり生きて来ました。70歳で賃労働から完全に身を引き、直後の1年間はカンパ、デモ、スタンディングオベーション、署名活動、各種集会等にも精力的に関わったが自分の1年間を総括し、無力感だけが残った。その後はといえばカンパぐらいで何もしていない。しかし、自分なりの想い、意識を持ってささやかに生きている。自分が自分に責められる日もある。でもじっと生きている。
 整えた文章にすればYI氏の投稿文章のようになるでしょう。

匿名様

いつも読んでいただきありがとうございます。コメントも多謝。

世界の圧倒的大多数は無名の人たちです。庶民、市井の人々、無名の市民…… もちろん、彼らが「優しい」人とイコールでは結べない。
市井の人たちの中に、たくさんの不人情や、不道徳や、差別や偏見が渦巻いています。
ときどき、こういう書き方が「上から目線」になっていて、よろしくないなぁと思うこともあります。
一方で、だからよーくよーく考えて物を言う、書く、ことが自分自身に求められているなぁとも思います。

私は、間違いなく、インテリだ。いろんな意味で強者だ。車イス者になった今も、強者であり続けています。
それはなんか自分の選択ではないようにも思うのですけれど、だとしたら、運命? そうかもしれないです。
そのあたりは、適当に考えちゃう。受け入れちゃう。
そのうえで、強者としてどう振舞うのか? 

青年海外協力隊に加わった際に、身近に「さだまさし」大好きな奴がいて。
かれが盛んに「愛するの反対は、憎しむ、ではなく無関心だ(とさださんは言っていた)」と
口にするのを聞きました。さだまさしはさておいて、愛の反対は無関心、それはよくわかる。
共感できる。
じゃ、関心があるのと、無関心と、何が違うのか? 実効的には、たとえば今ガザの庶民の人たちの前では
遠い場所で「関心がる」も「無関心のまま」も同じじゃないか? はい、それは否定できないです。
でも、それでも「関心がある」ほうがよい、と思う。それは準備みたいなものです。
日ごろから準備しているのと、まったくしていないのでは、やっぱり違うはずです。
だから無関心はよくない。アンテナを張っていないと、情報は入らない。知ろうとしないと、知らないまま。

でも、私たちは、やがて死んで消える。準備も無駄になる? いや、そんなことはないと思うのです。
社会に、どんなに小さくても「感じ」は残る。どんな「感じ」を残すのか?
開発業界では「100匹目の猿」という現象が注目をあびたことがあります。
もともとは科学的な言説のふりをした、虚構です。けれども、虚構だとしてもわりと元気の出る
虚構です。そうなればいいな、という願いのようなもの。それも「感じ」のひとつです。

じっと生きてる、いいじゃないですか。ささやかは、素敵なことだと信じます。
無名の人であり続ける、とても魅力的な生の在り方だと私は思います。
有名の人は、どうも信じきれない・・・・、私はどうも偉い人は苦手で。

どうぞまた遊びにいらしてください。まずはお元気で。

村山哲也@プノンペン

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