SophiaGED オンラインベース 探究学習サポートプログラムサービス 「せかい探究部」で出会うかもしれない方々へ

1991年。今から30年前。ケニア西部クウィセロ村、クウィセロ中等学校でのり化の授業。私、27歳です。

 今日の投稿は、近日にzoomを使ってお話をすることになっているSophiaGEDによるプログラム「せかい探検部」の方々へを、まず意識して書きます。一種の伝言板というつもり。で、「若い方々への学び応援」という意図で、どんなことが書けるか、お伝えできるか、という点で興味が有る方も、どうぞ読んでみてください。

SophiaGEDと私の恩師H先生と

 SophiaGEDとは、ということをぼくの文脈でまず書いてみます。
 Sophiaは、上智でありまして、SophiaGEDは、日本の上智大学が2019年にバンコクに設立した「Sophia Global Education and Discovery Co., Ltd. (Sophia GED)」という会社法人です。
 東南アジアを中心として“質の高い実践型のスタディーツアーをはじめとする、特色と個性ある教育・研修事業”を展開して、“国際貢献への高い志を持つ次世代のグローバル人材の育成”に貢献し、よりよい国際社会の実現を目指すということです。これらの表現は、以下のSophiaGEDのHPから直接拝借しています。

 SophiaGEDの代表取締役が、私の大学院時代の指導教官H先生なのです。
青年海外協力隊に参加しケニアで理数科教員として2年活動し、帰国したのが1992年12月。それから1年ちょっと経った1994年4月、私は名古屋大学の国際開発協力を研究する大学院に転がり込みました。そこで出会ったのがH先生でした。H先生は世界銀行やアジア開発銀行でのお仕事現役ばりばりのところから、名古屋大学大学院に、やはりこの年に赴任されたのでした。つまり、H先生も私も、名古屋生活1年生同志、でもあったのです。H先生にとって最初の“学生”のひとりが私だったのであり、その後のことを考えると、それは私には大ラッキーでした。
 なぜなら、研究畑ではなく、実務畑で経験をつんでこられたH先生のゼミ内容や、さらには進路へのアドバイスがあったから、その後、私が国際開発業界の末端でスタートを切ることができた、ということなのです。もし研究ガチガチの指導教官と巡り合っていたら、大学院を出た後、私はまたまた途方に暮れていたかもしれないなぁと思うのです。

 H先生とは、その後も、フィリピンやカンボジアでちらちらとお仕事で重なり合うなど、本当にお世話になってきました。公私両方で、相談に乗っていただきました。
 さらにはH先生と私は、大学院時代から割と背丈体型が似ておりました。ということで、H先生の研究室で私がひとりで作業をしているとき、H先生を訪ねてきた方から私はH先生とすっかり勘違いされたこともあります。なんとも楽しく懐かしい思い出であります。あれからすでに四半世紀経ってしまったのですねぇ。
 私が2014年にルワンダで事故に遭った後、車イス生活を始めてから、東京でH先生と再会できた日のことも忘れられません。そのときH先生は上智大学に移られていました。そして、私が生き残れたことを心から祝ってくれたのでした。

 先日、私が『超えてみようよ!境界線』(かもがわ出版)という本を上梓したことをご報告しましたら、今回、若い方々との接点をH先生がアレンジしてくれたというわけです。H先生、ありがとうございます。

簡単に自己紹介

 簡単に自己紹介しておきます。

 村山哲也 56歳 東京都出身です。
 大学院の前は、先ほどちらりと書きましたように、青年海外協力隊に参加し、ケニアで理数科教員として活動しました。大学院後1998年からフィリピン、2002年からカンボジア、2012年末からルワンダと、ODA(政府間援助)による教育開発プロジェクトに関わりました。その隙間に、短期ではスリランカ、モンゴル、ヨルダンなどにも行きました。どの仕事も途上国の教育セクター開発に関わるもので、主に理科教育や教員研修の支援が多かったのです。
 2014年8月、ルワンダで仕事中に、乗っていた車が谷に転落しちゃって、脊髄損傷(胸椎6番の脱臼骨折)、下半身完全麻痺で車イスの生活となりました。ちょうど50歳でした。1年近い入院を経て、2015年夏から社会生活に戻りましたけれど、さすがに事故以前の働き方はできなくなりました。

 私はアカデミックな世界とはあまり縁がありません。仕事を通じて報告書はたくさん書いてきましたけれど、研究論文の類はありません。

 みなさんがフォーカスしているASEANでいえば、ブルネイと東ティモール、ミャンマー以外の国は仕事や私事で訪問したことがあります。バンコク、クアランプール、シンガポール、ホーチミン、ビエンチャン、ジャカルタ、マニラ……、どこも美味しいし、楽しいですよね。

高校・大学時代 1980年代のこと

 私は都内の公立校で、野球三昧でした。強くはありませんでしたが、甲子園を目指しておったのです。
 月曜日の朝一のホームクラスで私がいない。
担任「村山はどうしたー?」
クラスメート「今日は野球部の練習が休みなんだと思います」
担任「そうかぁ」

 そういう高校時代でした。とても自由な校風で、今では考えられないようなことがいろいろとありました。授業をサボって喫茶店、授業をサボって映画、そんな思い出が多くあります。

 当時、私は将来、途上国で仕事をしたいなぁという気分は持っていました。すでに青年海外協力隊は視野にありました。途上国を意識して、農学部に進学しました。
 けれども「農業技術」以前の問題、つまり経済や政治が、貧困や食料不足や紛争やを作り出しているらしいことも、大学進学時には感じていました。ただ、そういう分野の勉強をしてそれがどうやって途上国の仕事につながっていくのか、イメージは全然なかった。むしろ、農業等の技術を伝えるみたいなイメージが強かったのです。
 けれど、東京生まれのシティーボーイ(坊主刈り)が農業を大学でさらっと学んで技術指導???今思えば、なんとも大それた話です。結局、農業を“職業”とできないまま、大学を卒業し、つまりは大学で取った理科教員免許を活用して、まずは途上国をどっぷり感じようと思って協力隊に参加したのです。希望赴任地は「どこでもOK」としましたけれど、本音はアフリカに行きたかった。だから派遣予定地がケニアだったのは、とても嬉しかったのでした。
 その辺りのことは、拙著『超えてみようよ!境界線』で書いています。もしご縁がありましたら、手に取ってみてくださいませ。

 私が高校、大学時代を過ごした1980年代、まだ日本には国際開発協力を専門に学べる大学や大学院の過程はなかったんじゃないかと思います。そういう動きがとても活発になったのは1990年ごろから。
 バブル景気という好景気が続いたのは、Wikipediaによれば1986(昭和61)年6月から1991(平成3)年2月だそうです。私が大学を卒業したのは1988年。当時、多くの日本企業が海外に進出し、多くの人が仕事や海外でどんどん世界に出ていく。そんなときでした。
 東南アジアにアンテナを張っているとすれば、沢木耕太郎という作家の「深夜特急」という本をご存知じゃないかしら?80年代や90年代、バックパッカーと呼ばれた旅人が多く日本を旅立っていった、そのバイブルのような本。あの元となった連載が産経新聞で始まったのが1981(昭和56)年。東京ディズニーランド開園し、任天堂からファミコンが発売開始されたのが1983年。男女雇用機会均等法が施行されたのが1986年。昭和から平成に年号が変わった1989年。「金だけ出した」と批判され日本政府のトラウマになったといわれている第一次湾岸戦争が始まったのが1990年。
 世界では。
 WHO(世界保健機構)が天然痘撲滅を宣言したのが1980年。マイクロソフトがWindows初版を販売開始したのが1985年。フィリピンでマルコス政権が倒れ(エドサ革命)、チェルノブイリ原発事故が起きたのが1986年。1987年には世界の人口が50億人を突破。ベルリンの壁崩壊が1989年。

 そんな時代です。

さて、テーマは境界としましょう

 SophiaGEDの「せかい探検部」一期生であるみなさんは、現役高校生でもある。そして、「せかい探検部」に参加した動機は、以下のようなものだと読みました。

1位 東南アジアに訪れたことがあり(旅行、ボランティア)、以前から興味あったから
2位 現地(東南アジア)の風土や文化を学びたかったから もともと東南アジアに興味があったから
3位 学外の高校生と意見交換をしたかった

 1位と2位は、両立も可能なようで、よく似ていますよね。東南アジアは、他の場所の名前が入っても違和感はない。世界の中でことさら「東南アジア」がポイントだったのでしょうか?それとも、もしかしてみなさんの興味の対象は「東南アジア」に限る必要もなかったのでしょうか?
 さらには3位の回答、これはつまり自分の学校(高校)という枠があって、その外の同世代と意見交換をしたかったのですよね。同じ学内の同級生の人たちは、意見交換してますか?学内と学外との間で、何が違うと感じていますか?

 1位と2位でも、3位でも、その文章の背景には「同じ観点(日本?同じ高校?)」と「その外(東南アジア?)(違う学校?)」という認識があるように思えます。そして「同じ」と「その外」の間には当然、なんらかの“境界”があるはずですよね。その境界は、今のところ、みなさんの共通認識と無意識にとらえているんじゃないかと想像するのですけれど、実際のところはどうなんでしょう?

 本の前書きの中で、私は境界について以下のように書きました。

 実は境界って、身近なところにいくらでも転がっている。
 たとえば子どものころ、学校で自分のクラスと違うクラスとの間には強いライバル意識があった。それも境界だったんじゃないだろうか。でも、その境界は、他の学校との競争でもあればあっという間に消え去った。そして今度は、自分の学校と他の学校との間に境界ができた。そんな心持ち、あなたにも思い当たることがあるんじゃないだろうか。
 家族の中にだって親子で一枚岩なんて嘘っぽいし、贔屓(ひいき)のプロ野球やサッカーチームが同じだったり違ったりでできる境界だってある。
(中略)
 性別や世代の違いはいつも必要以上に強固な境界になりがちだし、肌の色、話す言葉、食べるもの、宗教、文化、民族、祖先……、境界を作り出すものを挙げていけば、きりがない。そして、障害だって、健常者からみれば境界の向こうの世界だ。
 でも、どの境界もけして固定した存在ではない。そして、境界を超えていくという行為は、あったと思っていた境界が消えるように思えること、境界を薄めていくことなんだと、今のぼくは考えている。
 越境した先で、越境者は〝よそ者〟となる。自分だけが周りの人たちと違う存在になるのは、けっこう怖い。でも、境界がそれぞれの都合で生まれたり消えたりするのであればどうだろう。境界があるのも、当たり前。その境界が薄まり消えることがあるのも当たり前。ぼくたちは、いつでも〝よそ者〟になったり、〝私たち〟になったりする日常を過ごしている。そんなふうに思えれば、怖いのも当たり前だし、でも、それほど怖がらなくても大丈夫と思える。そんなふうに越境をとらえてみたどうだろう。

 さて。
 あなたにとって、今気になる“境界”はなんですか?
 SophiaGEDに参加して、消えた、あるいは薄まったように思える“境界”はありますか?
 このふたつの質問、ぜひ考えてみてください。


  もし質問等、聞きたいこと等ありましたら、事前に送っていただければ、より話は深まるかもしれない。
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 お会いできるのを楽しみにしています。ではでは、またー。
 

 

 

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