物差しがたくさんあるのはいい
世の中、いろんな物差しがあっていい。東大を筆頭とする試験の実力を競うのもいいし、スポーツの祭典があってもいい。音楽力や、美術力の優劣があっても仕方がないし、その能力に長けた人たちがステキな音楽を作ったり演奏したり、絵画や彫刻や息を飲むデザインでぼくたちを楽しませてくれるのも大歓迎だ。芸人の話術はやっぱりすごいものがあるし、文章家の表現力にかなわないなぁと思うこともときにいい気分だったりする。映画に心が動かされるのは、まず脚本がいいし、役者の演技も大事だし、カメラや照明の仕事もきっと大きな違いを生んでいるのだろう。舞台もいい。最近はなかなか見に行く機会はないけれど、20歳前後に通った第三舞台という劇団の劇は、今でもぼくの日々の生活を豊かにしてくれている気がする。
一方で、文武両道という言葉は嫌いだ。ケッって感じがする。「身体が健康であれば、おのずから精神も健全である」というような言葉も嫌い。調べてみたら、古代ローマの詩人の言葉が素となった西洋の格言らしいけれど、ま、古い価値観だろうなぁって思う。そもそも、精神の健全をどう測るのよってことだ。こういう言葉は、もともとの言葉の意味を離れて、どんどん変な風に使われがちなのだろうと思う。勘違いを加速させやすい、軽い言葉だ。
もちろん、人は結局は総合力だと思う。ぼく自信に馴染み深い野球でいえば、体力は合ったほうがいいし、野球というスポーツのルールを含めた理解もないよりあったほうがいい。そっちのほうが、上手になれる可能性が広がるって意味だ。9回一打同点という打席が回ってきて、緊張で自分のスイングができないのか、それともアウトセーフは結果論として伸び伸びと日ごろの練習の成果を出せるかどうか。やっぱり後者を目指したいし、ぼくはそれを「人間力」なんて表現していた。今思えば、「人間力」という言葉はあんまりいい言葉じゃない。人間力に上も下もなかろうもん。
「あなた力」とでもいったほうがスッキリ来る。あなたの力を試しなさい。あなたの力を発揮しなさいってこと。自分力でもいい。自分力を上げるように、できることをやりな。できないことは、無理よ。無理なら無理で、それはそれでいいじゃん。
パラリンピックのメダル獲得競争は、つらい!
さて、なんか近づきつつある、我が故郷、東京で開催されるオリンピックとパラリンピックだ。最近もブログで書いたように(注 タイトル『1964東京生まれが、2021TOKYOから距離をおくことにしたこと』)、もうボク自身はあんまり関心がなくなっている。開くのも止めるのも、どっちでもどうぞ、ってな感じ。納税者としてはあんまり無関心なのはよろしくないし、前首相の「アンダーコントロール」という嘘を時間が経ったからと云って忘れるつもりもないのだけれど、でも、考えるのが楽しいネタでは、ぼくにはなくなってしまっているのは、先のブログに書いたとおり。
それでも、まだいくつか書き足りないことがあったりもする。
ぼくが2014年に怪我をして下半身麻痺になった際、何人かの友人知人から「東京パラリンピックを目指せよ」という応援をいただいた。日の丸君が代の掲揚や斉唱も嫌いな私ですので、端からそういう選択肢はないのだけれど、パラリンピックは障害者になった者としては、改めてちょっと気になる存在だった。調べてみると、オリンピックと抱合せでパラリンピックが開かれたのは1964(昭和39)年の東京五輪が最初らしい。
もともと英国で第2次対戦の脊椎に怪我をして障害を持った傷痍軍人らのリハビリテーションとして始まった障害者スポーツが、なんかのきっかけでオリンピックとリンクしたらしい。当時の日本代表団は、もう無理やり引っ張り出された障害者の人たちで、でもそれは、それまで日の当たることのなかった多くの障害者にとって刺激的で晴れがましいチャレンジだったようだ。悪くなかった、むしろステキなチャンスだったんじゃないかと想像する。
それは今でもそうで、身体障害者、あるいは精神障害者のなかのパラリンピックに縁のある人たちにとって、今でも「ステキなチャンス」ってのはそうなのだろうと思う。彼らが楽しめれば、充実した時間を送るきっかけになれば、それはいいじゃないか、って思う。
ただ、これまでもニュースで流れていたように、パラリンピックで国として獲得メダル数を数えるのは、どうも好ましくないと、ぼくは感じている。あれは、できれば止めて欲しい。なぜか?
クラス分けの境界でもだえる選手たち
障害者スポーツには、クラス分けがある。クラス分けとは障害の影響を最小限に抑え、競技パフォーマンスの優劣が勝敗を決めることを確証するために設けられた線引きに、競技者をその機能障害の内容によって割り振ることだ。同じような機能障害程度のものが公平・公正に競技を行うために不可欠なもの、とされている。
例えば、水泳競技。肢体不自由者(身体障害者)の平泳ぎにはSB1からSB9の9クラスがあり、自由形、バタフライ、背泳ぎにはS1からS10まで10クラスがある。さらに視覚障害のクラスが、すべての泳法で3クラスに分かれている。そしてやはりすべての泳法で知的障害のためのクラスがひとつ。それらのクラスが泳ぐ距離ごとにある。
例えば自由形100メートルという競技には、カテゴリー1~10までの肢体不自由者のクラス、カテゴリー11-13という視覚障害のクラス、カテゴリー14という知的障害のクラスの合計14のクラスがある。オリンピックの100メートル自由形の勝者は男女ひとりづつなのに対し、パラリンピックの100メートル自由形には男女それぞれ14人あわせて28人の勝者が誕生する。
クラスがあるということは、どんなに「公平・公正」を謳っても、そのクラスの中で有利と不利なものが生まれる。たとえば、オリンピックを年齢別でレースすることを想像してみて欲しい。50代というクラスが存在するとすれば、どうしても50才51才52才という若いほうが、58才59才よりも有利になる。59才の選手は、翌年60才になって60代クラスに移れば、また有利となる(有利だから勝てるというわけではないのはもちろんだけれども、有利なのは確かだろう)。同様のことはパラリンピックのクラス分けでも、絶対に起こる。クラス分けのラインギリギリでより障害が重いと判断されたほうが有利なんだ。
だから、ラインギリギリでそのラインを超えない選手は重宝される。その選手は振り当てられたクラスの中でいい成績を上げる可能性が高いからだ。もう少し障害が重ければ有利なクラスに入れるのに、ギリギリで不利なクラスに分けられてしまうような障害を持っている選手は、パラリンピック選考委員会にとって残念な存在となる。どうしたってメダルにはなかなか届かないからだ。
障害の内容でどのクラスに振り分けられるかは、だから選手たちにとってはとても大きな問題で、その障害の内容をどれだけ中立公正に判断できるのかも、なかなか難しい問題となるらしい。医者の診断書?でも、それだってどうしたって恣意的になりかねない。またその振り分けの基準も、必ずしも未来永劫固定されたものではなく、これまで何度も改定が繰り返されている。そのたびに、障害者選手とパラリンピック委員会は一喜一憂することになる。
そういうことの結果としての、パラリンピックでのメダルの色と数なわけです。つまりそれは、公平公正であって、けっして公平公正ではない。つまり、公平公正とは何か?オリンピックだって、身体の大きな選手が有利なものが多いわけで、2メートルの身長をもつウサインボルト選手が速いのは当たり前でもある。背の低い選手がボルト選手と同じレースで走るのは考えようによっては不公平でもあるわけだ。でも、そこは「人類」という振り分けで、みな納得する。チーターもオリンピックに参加できたら、きっと多くの人はそれを公平公正とは考えないだろう。チーターとまで言わなくても、両足を失ってそこに強い板バネの義足をつけて走る選手が入るのも、それを公平公正というか、大きな議論が沸き起こるだろう。実は、すでにトレーニングにも大きな金額が必要なのだから、その選手の練習環境によっても公平公正が疑われる状況は発生しているけれど、それはあまり語られない。
つまり、公平公正とは、昔も今も、きっと架空の了解ごとなんだ。それでも、まぁまぁで、ことは動いていく。でも、そろそろみんな暴露されつつある。そこに感動や感激を求めるのも、限界が来つつあるのだろう。
それほど縁のない大人はせめて静かにしていましょうよ
その限界のひとつがパラリンピックのクラス分けで、だから茶番は承知でメダルの色や数を競うのを楽しもう、というのもひとつの考え方ではあるかもしれない。やらせが常に悪ってことではない。選手たちは常にアクシデントに見舞われる可能性はあるわけだし、努力なしにいい記録が出せるわけでもない。それはそれで、拍手喝采、称えればいいじゃないかって考え方はあるんだろう。あとは個々の趣味の違いなのかな。筋書きのあるプロレスや、架空のドラマや映画を楽しめるのも、ぼくらに許された能力だ。実際、プロレスラーの体力はやっぱりすごいし、面白いドラマや映画にのめり込んで何が悪い?ってことだ。
あとは、演者や製作者の自意識だろう。プロレスラーはプロレスの虚無がわかった上でその鍛えた身体を見せつけてくれるし、ドラマづくりに関わる多くのプロフェッショナルに罪があろうはずがない。ただ、勘違いがあれば……、話は違ってくる。真剣勝負とストーリーのある勝負の混同、ドラマと実社会の混同を、演者自身が(あるいは製作者サイドが)してしまっているとすれば、それは喜劇だし、油断すれば狂気にもなる。ちがうかな?
で、オリンピックやパラリンピックだ。分かって見るバカ、参加するバカ、それはそれでいいんじゃないかとも思う。でも、わからないで見ているのは、やっぱりガキっぽい。ジャイアント馬場は、きっとかなり強かったのだろう。でも、その強さはやはり架空のものだ。馬場はもちろんわかってやっていた。デストロイヤーも、タイガージェットシンも、もちろん大人だった。三沢光晴やハヤブサのように、真摯に演じて死につながってしまった選手もいた。たいして知らずに書くのだけれど、本望だったんじゃないのだろうか。中途半端じゃなかったのは、よくわかる。
さて、オリンピックやパラリンピックの選手たちは、どれだけわかってやっているのだろうか?中には、あぁ、この人は分かっているんだなぁって思うひとがいないわけじゃない。でも、そんな人は少数派に思えるのは、オリンピック・パラリンピック嫌いのぼくの贔屓目なのかなぁ。

















間々田です。
今も付き合いのある教え子の中にはパラリンピックでのメダリストがいますし、東京大会の代表内定選手もいます。彼らは先天盲ですが、「今のパラリンピックでメダルを取ることができるのは、中途失明者ばかりだもんね」と言ってました。中途失明だと、体の動きをまねする経験があるんですね。例えば、ボール投げ、運動神経が良い先天盲の人でも、とても投げるのは下手です。まねることのむつかしさを学びました。河合純一君は金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得しましたが、今ではこの数の獲得は困難であると言われるくらい、レベルがアップしています。もともと、戦争で肢体不自由になった人たちの「リ」ハビリが始まりですので、まぁ、仕方がないか。つらつらと考えました。
間々田様
いつもコメントありがとうございます。
そうですか、パラリンピックがこれだけ広く知られるようになると、メダルを取るのは中途失明者ばかり、という状況が生まれているのですね。パラリンピック委員会の人たちにとっては、どうしたってメダルを取れそうな選手優先となるのは、目に見えていますものねぇ。河合純一さん、メダル計21個はすごいですね。先のメダルを取れそうな選手優先というのは、たとえば一人の優秀な選手がいくつもの競技を掛け持ちするという状況も生み出しましたものね。夏冬オリンピックを掛け持ちする選手も、パラリンピックのほうがオリンピックよりもずっと多いはずです。そういう「メダルを取ること優先」となってしまっているのも、先のメダル競争のあんまりよろしくない弊害なのかもしれませんよね。
そのうち、中途失明と先天盲のクラス分けなんてことも議論になってきたりするのかもしれません。
カンボジアのパラリンピック選手は派遣される予定があるのでしょうか?
カンボジアの身体障害者バレーボールはレベルが高いと聞いたことがあります。
村山哲也