重度身体障害者の東京話がなかったのが少し残念でしたけれど
『東京の生活史』岸政彦編(筑摩書房 2021)、150人の人が聞き取った150の人生の破片を綴った2段組で1200ページを超える重たい本を2ヶ月ほどかけて読み終わりました(「重たい」は本当に重い、つまり重量のことで、内容を指して使ったのではありません)。次々と続く150本の短編映画を見ているような読書でした。うん、楽しかった。
何が出てくるかわからない、玉手箱みたいな感じなんです。東京生まれ東京育ちの私ですけれど、『東京の生活史』には私の知らない話が沢山出てきました。どちらかというと、若い世代の語りが私には新鮮で、異世界を垣間見るような気がしたものです。知らない言葉もいっぱい。そんな知らない言葉ひとつひとつは、でも調べることもなくさらっと意味を想像して読み進めてしまいました。
たとえば、今、手元でパラパラとしてみると、「売り専」「フィーバークウィーン」「現金は剥がす」「白炭と黒炭」「ピナ・バウシュを見たか」「ポポの中の」「農業猶予制度」「ガッチビナイト」……、気にはなるんだけれど、スルーして読むという感じ。
異文化共生、多文化共生って言葉があります。日本の文化、なんて嘘っぽいよなぁと改めて感じます。『東京の生活史』だけでも、むちゃくちゃ異文化で多文化じゃんと。それがこの本の発案のところで「東京」を扱った、その東京たる所以、ということなのでしょうけれど。まさに多様。
そんな中で、LGBT的な視点(性の多様性への視点)はすごく印象に残りました。それが編集の結果なのか、東京を扱えばどうしたってそうなるのかは分かりません(東京に出てくると、カミングアウトしやすい、とか)。とにかく同性愛者の語りはいくつも出てきます。でも脊髄損傷者は登場しませんでした。障害者の語り、視覚障害など、はあるのですけれど、車イス者の語りはなかった。要介護の人の語りは、あったかな、特に印象に残っていません。本格的な要介護の人の語りはなかったんじゃないかな。
東京の切り口のひとつに、きっと24時間介護ってあるように思うのです。地方ではまだまだ簡単でない公的機関での介護申請が、東京では認められやすいとか。東京の中でも、たとえば24区の中でも認められやすい区があるらしく、たとえば練馬区は聖地だとある人に聞きました? 親の介護を離れて一人暮らしを始めたい重度障害者が、それを実現するために「東京へ行くぞ!」なんてこともあるなんてことを聞ききます。もちろんそれは東京の自治体が比較的財政的に豊かであることが一因ですけれど、それ以上にやはり東京という多様な場所で、活発に声をあげてきた先輩障害者が築き上げてきた成果です。
『東京の生活史』の人生150の断片に、そんな障害者たちの話が入ってこなかったのはちょっと残念なことでした。
「東京で暮らしているひと、いろんな階層と年齢と職業とジェンダー。東京で、いろいろあるけれど、一生懸命暮らしているひとの人生を聞きたい」という岸政彦さんの思いつきからできたのが『東京の生活史』だそうです。聞き手の公募が始まったのは2020年7月のことだったとのこと。あら、私がコロナ禍に巻き込まれて、予想外に東京に足止め食らっていたときじゃないですか。うーん、残念、この話は私のアンテナに引っかかりませんでした。もし知っていたら、きっと応募したんじゃないかなぁ。応募したとしたら、誰の話が聞きたかっただろうか。もしかしたら、◯◯さんとか、〇〇さんとか、お願いすることができて、そうすればばりばり重度障害者の語りを紹介できたかもしれなかったなぁ、なんてほんのちょっぴり残念に思ったりします。
それにしても、2020年7月に聞き手募集した本が、約1年後の2021年9月に出版されているなんて、すごいよねぇ。150の聞き書きの集合体である重たい本を編集した、筑摩書房の担当編集者、柴山浩紀さんの多大なご苦労が想像できます。あぁ、内輪話をぜひうかがってみたい!
「積極的に受動的」
私、人の話を聞くことに、かなり興味があります。
岸政彦さん、知らない方もおられるかも知れないから、ちょっとだけ書くと、彼は社会学者で主に「沖縄」を舞台に生活史を中心に研究をされている方です。『断片的なものの社会学』(朝日出版社 2015)という著作で、どーんと名をあげて、それ以降、ぐんぐん波に乗って活躍中です。社会学における質的研究の旗手のようなところに、本人の思いとは別に、立ってしまっている方だというように私は感じています。
その岸さんが『東京の生活史』の聞き取りのキーワードとしてあげているのが「私たちは、どれくらい「積極的に受動的」になれるか?」でした(そのことは、この本の岸さん本人による「あとがき」に書いてあります)。それが、生活史の聞き取りを長らく続けてきた岸さんの到達した結論でもあるとのこと。
私は、20代後半から50歳まで、海外での教育開発支援・援助を仕事にしてきました。その経験からも、どこまで「積極的に受動的」になれるのかという問いはものすごーく興味深いのです。
1990年代に、国際開発という文脈の中での教育支援で大きな潮流となった「万人への教育(Education for All, EFA) 」で、まず重要視されていたのは教育の量的拡大でした。基礎教育を受ける機会は世界中の人々に提供されなければならない。2015年までに、特に無償での初等教育を誰もが受けられるようにすることが21世紀を迎えたときの世界の目標でした。
一方で、1990年代にはすでに就学率を達成するだけでは不十分だという認識が支援現場では広く共有されていたように思います。量的拡大だけではなくて、質的改善が必要なのだという問題意識は当時からあった。1990年代後半に働いていたフィリピンの小学校で見た次のような光景を思い出します。
先生が何かを説明した後、教室の生徒たちを見回して…、
先生「わかりましたか?」
生徒たち「…‥‥‥。」顔を見合わせるような感じ。ひとりふたりだけが「イエス」。
先生(さっきよりもちょっと大きな声で)「わかりましたか?」
生徒たち 教室の前の方に座るよくできる生徒数人が「イエス、マム」と答えるものの、大多数の生徒はやっぱり「‥‥‥‥。」
先生(さらに大きな声で)「わかりましたか?」
生徒たち さっきよりも多くの生徒が、さっきよりも大きな声で「イエス、マム」、でもまだ半分ぐらいの生徒は、ためらっている。
先生(さらにさらに大きな声で)「わかりましたか?」
ほとんどの生徒たちが「イエス!!マム!!」と一斉に大きな声で答える。
→ 慈愛に満ちた眼差しで生徒たちを見回した後、授業参観をしている私たちに目を向けて、満足そうにうなずく先生。
(バックに映画『サイコ』の ヒュンヒュンヒュン という有名な効果音楽でも流れれば、おもわずキャー!!!と叫び出したくなるような、創作ではなく何回も実際に見た場面です。)
さて、このような場面で、支援者はどれだけ「積極的に受動的」であるべきなのか。
答えのひとつは、「受動的じゃダメだろう!」でしょう。上記のような先生と生徒のやり取りを維持する限り、生徒の学びは達成されません。なにか「違い」を作りだしていくことは、急務です。
その教室でこの先生に働きかけるというような行為が求められているのではなく、もっと広い視野での「違い」を作り出す必要があるのはもちろんです。この場でこの先生に「これじゃまずいでしょう!」と伝えることは、単に観察者としての自己満足でしかない可能性が高い。支援の戦略からすれば、そういうその場しのぎの対応は現場に混乱をもたらすだけの下手な介入です。
もし自分のかかわりがその日だけの限られたものであるならば、自分の知らなかった現実社会を知る機会と心得て具体的な改善には踏み込まないというのも、「できないことにまで、手を伸ばさない」という成熟した大人の姿勢でしょう。
しかし、岸さんの言う「積極的な受動」は、この成熟者の知恵としての「踏み込まない」とは違う。
聞き取りの場での「積極的な受動」とは、より深く知るための手法、つまりテクニックです。上の授業参観の事例であれば、満足そうに授業を終えた先生に対して自分以外の観察者がどのような意見を伝えるかをさらにじっと見守り続ける、というようなケースでしょう。実際に起こっていることをより深く理解するためには、「積極的に受動的」であることは大切です。でも、そういう観察者の姿勢は、気をつけないとかなり上から目線でいやらしい態度にもなりかねませんけれど。
興味本位?
では、このような「積極的な受動」をどこまで続けるのか。
おそらく、生活史の聞き取りという種類の質的研究が批判を浴びるのもそこです。端的に言えば「聞いてどうする」という批判です。
岸さんは『東京の生活史』というプロジェクトを実施するにあたって、「(聞き方の指導を特にしなくても)素晴らしい原稿が集まることは、最初からわかっていた」と、あとがきで書いています。素晴らしい原稿とは何か。私なりに理解すれば、それは「面白い原稿」のことでしょう。読むに耐える、興味深い原稿を集めるための唯一のキーワードが「積極的に受動的」に聞くことでした。このプロジェクトでは、素晴らしい原稿(つまり、面白い原稿)が集まるかどうかが成否のすべてを握っている。1200ページを超える大著を読者が読み続けられるかどうかは、そこにかかっているわけだから(身も蓋もない言い方をすれば、読んでもらえなくても売れればプロジェクトは成功!、ではあるけれど)。
だから、それに対しては「本にすればいいのか?(売れればいいのか)」という批判は必ず出る。つまり、小さな生活をわざわざ「晒す」「剥き出しにする」のは、興味本位が過ぎるのではないか、という問い。覗き見は楽しいからね、と。「聞き取り」が研究のためであれば、余計に「聞いてどうする」が問われるのは確実です。
(もちろん、『東京の生活史』の場合は、語っている人が無理に話を晒されているわけではけしてありません。皆、本にされることは了解の上、多くの場合は嬉々として語っている、ように思えます。)
質的研究を中心に行っているある社会学者(岸さんではない!)が、調査研究を行う動機として「社会問題を解決したいのではなく、現実を知りたい、何が起こっているのか理解したいという思いが強い」と語っているのを読んだことがあります。そしてその対象が社会的に明かされていない部分であればあるほど(社会調査の多くはそういう社会的“暗部”に向けられることが多いでしょうし)、調査者は批判者からの「聞いてどうする?」という問い/批判を受けることになる。
質的研究に対するこの問題については、例えば岸さんらはこの問いと正対し、自分をごまかすこと無いように、さらには情報提供者への尊厳を守るために、苦悩しのた打ち回りながら、研究し、本を出し、発信していると私は理解している、と書くことでここでは止めとします。
以下では、現実を知りたいという研究者の思いに、私もすごく共感するということをもう少し。
私が協力・支援の現場に長期間とどまるスタイルの援助の仕方にこだわるのも、「解決」以上に「知り、理解したい」という“興味本位”な思いが強いからだと自認しています。そもそも、とにかく解決はもう猛烈に大変なのです。先の「わかりましたか?」「イェス、マム」を例にしても、それを解決する?って気が遠くなります。世代交代も含めて数十年かけて良くしていくしかない。そもそも、この事例はとても表面的です。背景には「教育とはなんぞや」という、より本質的な課題がある。(ちょっと専門的になるけれど)「生徒中心の授業」を紹介・導入すれば解決するような簡単な課題ではないのです。
開き直れば、開発協力・支援なんて、興味本位からこそ始まるのです。“此処でない何処か”への興味なしに、開発協力・支援なんて取り組めない。だからとっかかりはそこで良い。
しかし、それでもやっぱり「知ってどうする?」と問わなくてはいけないとも思う。そして、何かの行動が起こる。そうすればさらに次の問い、「それをやってどうする?」という問いが待っている。その果てしない繰り返し。そのどこででも、自己満足、は微笑むチャンスを今か今かと待っています。
いやいや、自己満足は、大事で大切よ。自己満足を、否定的にのみ使いたくはありません。自己満足があるから、私たちは前にすすめる。次がある。自己満足のない日々の、なんて味気ないことか。ただね、仕事と言わずとも生きていることは、どうしても他者がからむ。他者との関係の中での、「自己のみ満足」は、やはり注意が必要で、それなしには滑稽で悲しい。
ピエロの滑稽さを安心して笑えるのは、演者が自ら自覚してピエロを演じているという不文律の了解事項が見る側にあるからです。演者が自覚なくピエロを演っているとすれば、その滑稽ぶりは笑うに笑えないものに一気に暗転します。さらに厳しいのは、協力・支援には必ず被支援者がいることです。「自己のみ満足」な協力・支援につきあわさられる被支援者という図は、どうしたってまずい。犯罪的であることすら、ある。
で、俺のやってきたことは、やっていることは、やってきたことは、どうよ? 援助する側で、障害を得たとはいえ引き続き強者であり続けている私は、どうしたって問われなくちゃ、ね、と思う。
そして、君は、どうだい?
(あーぁ、書き出したときにはまったく別展開を想定していたのですけれど。構成を定めきれずに書き出すと、こういう自分の首を締める怖ーいことになるのだなぁ。深く反省、今後、気をつけます。ちなみに書き出してしまったので、おそらく次回もこのネタ、国際援助・協力のこと、をちょい続けます、多分。)
とにかく、『東京の生活史』とても面白かった。あなたも枕元に一冊、睡眠前に一話一話ゆったりと、1年ぐらいかけて読むってのが、おすすめなんじゃないかなぁ。


















小生は『東京の生活史』を読んでいません。学兄の最後の部分
『東京の生活史』とても面白かった。あなたも枕元に一冊、睡眠前に一話一話ゆったりと、1年ぐらいかけて読むってのが、おすすめなんじゃないかなぁ。
を『東京の生活史』の中から具体的に紹介して"薦めて″いただきたかったなあと思います。
匿名様
コメントありがとうございます。
『東京の生活史』という本、150人の聞き手が150名からの語り手から聞き取った人生の断片が次々に流れていくという構成です。で、どの話がお薦め、ってのは私は特にないのです。どれも意外な面白さに富んでいる。油断して判ったような気分になっていると、さっと足元をすくわれる。まさに事実とは小説よりも奇なり。読み手ひとりひとりが、それぞれの語りに違った印象を持つ、というタイプの読み物だろうと思います。ですから、“薦める”ってのはこの本の場合は野暮だなぁと思います。
一話一万字ほど、400字詰原稿用紙なら25枚かな。それが全部で150話。気長につきあうタイプの読書に向いている本です。 もしご縁があれば、ぜひ。(こういう読書の本は、図書館で借りて読むには難しいですね。最初から全部読むのではなく、パラパラめくって出会ったところを読む、でも楽しめると思いますけれど)
早々に返信ありがとうございます。学兄はお薦めでないようですが市立図書館で貸し出しを受けて、パラパラ捲って、読んでみてその上で買うかどうか決めたいです。買った場合には一日一話のペースでじっくり読むか否かは分かりませんが・・・。小生はこの手の本は本来手にしたい本ではありません。学兄が話題に取り上げておられるので互いに異なる150人が互いに異なる150人に聞いてまとめられて何が話題で著者(?)はどういうことを纏めに書いたのか、そもそも何ゆえにこんな企画を考えたか(目的)も知りたいです。
個人的にはこういう風潮は好みではありません。