イラクで活動する若い人たちからちらりとインタビューを受けちゃいました。
先日、ある偶然で現在イラクで復興を支援している日本の若い方々から一時間ほどインタビューを受けたのです。彼女/彼らは、イラクで活動中で、イラクからインターネットをつないでプノンペンにいる私にいろいろ質問してくれたのです。私にはとっても楽しい時間でした。
この件は、また後日、あらためて書くことがある予感があります。
私が海外支援に始めて参入したのは、1990年の青年海外協力隊(現在のJICA海外協力隊)でした。私はケニアに理数科教師として派遣されたのでした。その派遣前に派遣前訓練という3カ月近い合宿研修がありました。現在の協力隊員は、福島の二本松訓練所、あるいは長野の駒が根訓練所でこの訓練を受けます。そこでは寝起きするのは個人部屋になっているんじゃないかしら。私のときは、駒ケ根訓練所はすでに運営していましたけれど、二本松訓練所はちょうど建設中だったような記憶があります。そして私が訓練を受けたのは、すでに閉鎖されてしまった東京の広尾訓練所。六本木のとなりみたいな場所です、都内一等地。
そこでは13人部屋で過ごしたのです。大きな部屋の半分を二段ベッドが並んでいて。そこでそれまでまったく知らない同士の20代30代の男性が3ヵ月一緒に過ごすのですから、いやいや今思えば濃い時間だったなぁと思います。あんなのは人生一度切りだよなぁ。
あのとき、まだパソコンはまだ普及していませんでしたし、携帯電話もありません。その分、室内での会話は弾んだのだと思います。そして、同室のメンバーの中には、まだ海外に行ったことが一度もないまま協力隊に参加してきた人もいたのです。
その後、私は紆余曲折を経てケニア後も海外協力の仕事を続け、その中で主に協力隊の人たちと交流することも多かったのです。そして、最近の協力隊員と私が参加したころの協力隊員とではずいぶんと違うなぁと思うことが多いのです。最近の協力隊員は、私のころよりずっと真面目です。ほとんどの隊員は、協力隊参加以前に海外経験がたっぷりある。しかも、学生中や就職後に海外の体験ツアーやボランティアに参加したり、NGOのインターンに参加したり、さらには留学経験もあったりする人が珍しくない。むしろそんな体験を持つ人のほうが多いぐらいの感じです。つまり協力隊参加以前からの取り組みがすでに深いのです。当時の自分(協力隊参加時26歳でした)や訓練仲間を思い出してみると、みんなとっても素人集団だったなぁと思うのです。それと比較して、最近ではすでにセミプロ級の人たちがどんどん協力隊に参加しているなぁという印象を私は受けます。インターネットが発達して欲しい情報が以前よりも容易に取れるということも背景にはあるのでしょうけれど。
私がインタビューを受けたイラクで活動する若者たちは協力隊員ではありませんが、イラクにかかわることになった動機をちらっと聞くと、みんなよく考えているなぁと感心するのです。意識高い系と書いたら気を悪くされるかもしれないけれど、やっぱりその真摯さはすごいなぁ、偉いなぁ、たのもしいなぁと、おじさん、いや彼らからみればぼちぼちお爺さんの私は感心してしまう。
若さって眩しいなぁと改めて思う、そのインタビューを受ける体験だったのです。
若き国際協力師が記した一冊の本
さて。
最近、『世界は誰かの正義でできている』(原寛太著 KADOKAWA 2025)を読みました。著者の原寛太氏は1994年生まれですから、今31歳? 私からすれば、上記の若者も原氏と同じ世代。彼は33万人を超える登録者を持つYoutuber(インターネットの動画サイトに、自分で作成した動画を配信する人)です。世界のあっちこっちを訪問し、ジャーナリストとしてそれぞれの地の動向・問題を伝える動画を撮っています。私はたまたまコンゴ民主共和国東部の紛争に関する彼の動画を観たのでした。
そこは、私が2012年末から2年弱働いた小国ルワンダと隣接する地域で、私はルワンダ側の「ついそこが国境で、あっちはコンゴ民主共和国」という場所でビールを飲んだり、キブ湖というわりと大きな湖のルワンダ側から西方の対岸に広がるコンゴ民主共和国の丘陵地を眺めたことが何回かあるのです。さらに、そこでの紛争は1994年に起こったルワンダでの大虐殺と密接に関連している。ルワンダへの関心を持ち続けている私としては、どうしたってコンゴ民主共和国東部ってのは気になる場所なのです。
そこに乗り込んでいって、現地の臨場感あふれる状況を伝えてくれる。そんな原氏は私にとっても貴重な存在です。
それで、この本を見つけたとき購入しちゃったのかな。先日、未読の本が入っている数箱の中から偶然目に留まって。あっという間に、といっても2時間弱ってところですけど、読み終わりました。ページ数は250ページを超えますが、ページ当たりの文字数は少ない。うーん、本をあまり読まない人たちを意識すると、こんな体裁になるのかなぁ。
コンゴ東部紛争地帯での体験から始まった文章は、やがてなぜそういう場所で動画を撮る仕事を選んだのか、という自分語りになっていきます。
本の表紙には「アフリカで学んだ二元論に囚われない生き方」とあり、さらに帯には「「正しさ」を疑うことからはじめよう」といった文字が並ぶ。彼が様々な逡巡の中で、そのようなことを体感していく様子は本文の中に書かれていて、うん、まぁ、わかる。けどね……、あぁ、この本は機会があったら若い人たちに差し上げよう、と私は思ったのです。私が読む“必要”はそれほどなかったかもしれません。
原さんは、自ら《フリーランス国際協力師》と名乗っています。フリーランスは、どの組織にも所属していないという意味でしょう。それに続く国際協力師という言葉。原氏によれば、この言葉はNPO法人宇宙船地球号で理事長を務めていた山本敏晴さんが最初に生み出したのだそうです。私も、以前、なんかでこの言葉を読み聞きしたことはあります。と思ってちょっと過去の本の購入歴を見たところ、山本敏晴著『国際協力師になるために』(白水社 2007)を私は2012年に購入していました。国際協力師、なんかカッコウいいじゃない、と思ったような記憶は確かにあるのです。山本さんは、お医者さんかぁ。そうなんだよなぁ、やっぱり“命”と深く関連したところでの協力支援は力があるのだよなぁ。山本さんの著述、あまり多くを読めてはいませんけれど、きっと素敵なことが多く書いてあること間違いないだろうと思うのです。
もう一冊、水俣を撮り続けたドキュメンタリー作家の本
原さんの『世界は誰かの正義でできている』 を読むのに前後して読み続けていたのが、水俣病のドキュメンタリーフィルムを多く撮った土本典昭が綴った文章を集めた一冊『不敗のドキュメンタリー 水俣を撮りつづけて』(岩波現代文庫 2019)でした。こちらは読了するのに何日もかかりました。そして、どうしたって私の心に響くのはこちらのほうなのです。それは原さんのせいでは、けしてない。おそらく筆者の年齢(土本氏は私の父よりも年上の1928/昭和3年生まれで、2008年に78歳で逝去されています)、そして私自身の年齢といったことと深く関係したことだ。原さんの記述にどこか没頭しきれないのは、原さんの問題ではなく、私自身の良くも悪くも枯れ具合、あるいは擦れ具合、さらにはいじけ具合、の問題なのです。例えば、私は土本さんの次ような文章にふと目が止まる。
映画をとっても、親密に交わっても、あいしても、その病気そのものは消えることも軽くなることもない。当方から理解できるものではない。「あんたらに患者の苦しみが分かるのか」と問われれば、「その苦しみが分からないという苦しさが分かるか」と反論したくなる。(『不敗の…』52ページ)
一、歴史的な尺度での人間への信頼、二、映画人としての独立、三、そして何より、科学をもって四囲のデータをかため、その科学を表現としての芸術に高める力量がなければ、私は無限の相対論にはまるであろう。(同書 59ページ)
さらに同書末にある栗原彬氏による解説から。
顔を真っ赤にしておろおろしながら、全身で彼女に寄り添い続ける土本さんの姿勢の中に、覚悟のようなものが見えてきた。それは、何があってもこの人を支配しない、という覚悟だった。(同書 310ページ)
土本さんの作品の総体から、「社会はこれでいいのか」という怒りの声と、「それでも人間は生きている」という喜びの声が、二重唱で聞こえてくる。(同書 323ページ)
水俣病患者とその周囲の人たちと接し、最終的に(そのすべてではないのだけれど、その一部を)フィルムにとどめていく土本さんがなしていることは、私には私自身の国際協力支援での行為とかなり相似するように思えます。
たとえば、「その苦しみが分からないという苦しさが分かるか」なんて、当事者でない押しかけ支援者なら誰しもが感じることがあるでしょう。
また、彼があげた相対論に陥らないための条件。「一、歴史的な尺度での人間への信頼」は、そのまま支援に通用します、というか必須でしょう。歴史的というのは、せめて百年単位の過去までを見通すこと、例えば水俣を書きつづけた石牟礼道子さんなら数千年数万年をたどるのでしょうけれど、まぁ私はせいぜい数百年の植民時代の歴史に留まって、でも歴史感覚は大事だと思う。
さらに、「二、映画人としての独立」、これはどんな組織に所属していようとも、持ち続けることが望まれる精神の独立のことで、それは当然国際協力の場でも求めらるのだろうと思うのです。組織のためだけではダメで、組織とは別の個のスケール、醍醐味を見つけたい、ということ。
そして、「三、そして何より、科学をもって四囲のデータをかため……」の部分は、客観性ということ。自分のやろうとすることに関した専門家たちのさまざまな研究論文、あるいは過去のやはりさまざまな事例を探ることは当然やるべきことなわけです。そこでは一次的には若さは弱点でしかありません。熱意と善意でどうにかしようというのは、単に傲慢にすぎない。「科学的」であったこそ、ようやく熱意と善意が評価されるわけですから(ただこの科学性においても、実は多くの相反する意見・情報があって、そのどれに価値を置くかの選択は個々の責任となりますよね。ヒトラー/ナチスドイツが犯したホロコーストも、イスラエルのガザでの民族浄化も、大日本帝国の中国大陸進出/侵略も、それぞれにそれを支える“科学的データ”と“歴史観”があったわけです)。さらに、科学とは、つまりは自分を疑い続ける姿勢のことです。それを実感しているから、土本はここで科学を持ち出したのだ。つまり、ドキュメンタリーを撮ることも、協力支援も、他者の存在を必須とする以上、求められることは全部同じで、その全部が大事。
さらには「支配しない覚悟」、「「それでも人間は生きている」という喜びの声」……。それらは私が求め続けてきたこと/そして今も求めていること(そして、つまりはそう簡単には実現できないこと)でもあるように思うのです。
自らの限界を超えることをどう考えるのか?
さて、話を原さんの『世界は…』に戻します。
この項、結論をまず書きます。自分の限界を越えたことに取り組んでいるのならば、まず「立ち止まる」。それ以外の選択肢はないと思う。
続けるのは、まず自分に対して無責任。さらには他者に対して超ド級で失礼なことなんじゃないでしょうか。
若き国際協力師、原寛太氏が自身の著作で書いていることで、私が特に印象に残ったのは、彼が大学在学中から自らNGOを立ち上げ、そして、その後早くに心が決壊した(症状名「適応障害」)というくだりでした。
彼は大学在学中から、積極的に海外に出かけ、そこで多くの“不条理”を目撃し、体感する。たとえば、フィリピンのマニラ空港近くで偶然見かけたという、ボロボロの服を着た7歳ぐらいの少女が赤ん坊を抱えながら信号待ちの車にお金を無心する姿。あるいは、積極的に自ら出会いに出かけたウガンダの元子ども兵たち。原氏がインタビューしたという12歳で囚われた少女は、兵士として訓練を受け、14年後に解放されたときに持っていたのは過酷な思い出と、3人の子どもだけだった。そんな世界の不条理に直接触れた後、帰国して歩く東京で当然のように感じる違和感。誠実であればあるだけ、その違和感に耐える肉体的精神的体力を、おそらく原さんはまだ身につけてはいなかったのでしょう。
彼は自分の立ち上げたNGO運営の場で、本人曰く「発狂した」。
NGO活動から撤退し静養を強いられる苦しみの中から「自らの弱さを受け入れる勇気」(『世界は…』 138ページ)を新たに得た彼は、再度、協力支援の場にもどろうとする。そうだよね、もはや、もどるしか道はない。
つまり、国際協力師の多くは、協力支援の場によって生かしてもらっているわけです。私であれば、彼が「自らの弱さ…」と書いたのと同じことを「自分自身の狡猾さを受け入れる不純さ」と書くところです。だってそうだよね。俺らは“撤退”し、“帰国”することができる。よりよい医療を受けることができる。たとえいい収入ではなくとも、絶対貧困ではないレベルで生活を維持しているわけです。今日の食べ物を乞う人たちがいて、もしかすれば彼らの一カ月分の食費を超える値段のワイン一本を一晩で空けてしまう自分(たち)がいる。
自分が傷ついて倒れたら、救える人たちも救えなくなる……というような言い回しをできるようになれとは私は思えませんけれど、でもこれぐらいのタフさは求められるのが現実だろうとも思っているのです。傲慢、という言葉から、国際協力師が自由になれるとは私には思えない。だから、せめて傲慢を自覚し、それと共存する技術を得て、それをさらに磨いて洗練させていくしかないのでと私は思っている。原さんは、当時自らの傲慢性とうまくつき合えなかったのではないか?
その点でも、若さは、弱点の面が強いだろうと感じます。原さんの“自傷”は痛々しく、そしてかなり稚拙、つまり不用心、つまり未熟。でも、迷惑はお互い様、俺も間違いなくそうだったし、そのことで周りの人を傷つけて今がある。彼を非難し嗤うことは、私にはできません。ただ、私は原寛太氏よりももっとずっと臆病で慎重だったとはちょっとだけ思っています。まぁ、それが根本的な僕の狡さで、だから自分は壊れなかったけれど、大事な人を壊した。
せっかくの機会だから、私が考える“海外協力師”になるためにあると良いなぁと思う資質をあげてみると
原さんは幸運にも、回復し、自ら海外協力師の道に戻ることができた。けれども、原さん同様に途中で倒れて、そして戻ってこなかった人も多くいるのだろうと想像するのです。それはやはりなかなか辛いことだろう。
どうしたら、そういう深刻な事態を避けることができるのだろう?
私の大学時代の研究室に、世界一周旅行に出かけた先輩がいた。旅行に出る前、彼も国際協力支援に興味関心があった。けれども旅を終えたとき、彼は酒を飲みながらしみじみと言ったのです。「彼らは助けて欲しいなんてこれっぽっちも思っていないよ。彼らには彼らのやり方があって、俺らがわざわざ支援に行ったって、できることなんかない。それがよくわかったよ」
彼の言いたいことは、解らないではありません。おそらく、彼は結局何かと出会うことがなかったのだろうと思う。出会わないまま、世界を渡り歩いて、そして「支援」というスタイルが彼の感性に合わなかったということなのだと私は理解するのです。そして、彼はそこで無理に支援の道に踏み入ることなく、他の道を行った。あっぱれだと思います。
そういうことは当然ある。だから、もちろんのことですけれど、無理して海外協力師になる必要はない。江戸時代じゃあるまいし、生まれたときから職業が決められているわけではないのですから。
そのうえで、たまたま出会いがあって、この海外協力師が選択肢のひとつとして浮上したとすれば、さて、どんな資質があると良いのかなぁと考えてみたのです。
まず、鈍感。当然これは、敏感でありながら鈍感である、という種類の鈍感さ。これはあっていいんじゃないか。海外協力師を目指すという段階で、それはすでにあなたが敏感に世界を感知しているからに違いない。自分には直接関係のない格差や貧困というものが気になる敏感さがすでにある。だから敏感、それを前提としての鈍感さがあったほうがいい。
紛争地や難民キャンプなどの厳しい現実の中で仕事をするとして、その厳しさに埋没してしまう。たとえばそこで何を食するか。彼らが支給される食料と同じものを食べる。そういう真摯さは素敵だなと思うけれど、それで自分が倒れたら仕事にならないわけです。
あるいは、休暇をとって出かけたビーチで笑いながらワインやカクテルを飲めるか? そのワイン一本の値段は、数十名の子どもの予防注射にかかる経費と同じかもしれない。そう考えると、不条理ですよね。でも、そのワインが飲める鈍感さは、やっぱり心の強靭さと関係しているだろうと思う。強靭さ、つまり強くしなやかで粘りのあるって、大事だよ。そういう鈍感さは、あったほうがいい気がしています。
どうしたらそんな鈍感さを身につけられるか? それは楽観と諦観なのだろう。楽天と諦めとも。それは矛盾する感覚かもしれないけれど、でもその矛盾が自分の中にあることを認められることが、大事なんじゃないだろうか? 自分のこころだって一様ではない。なんとかなるさという楽天気分と、どうにもならないという諦めとが両立する。その中で、じたばたする。そして、それを「私、何やってんのかなぁ」と笑える。そんな余裕があると良いのだろうと思うのです。
どうしたら、そういう余裕が持てるのか? うーん、なんなんだろうなぁ。いろんなことを経験して、人とふれあって、つまり傷つけて傷つけられて、でも誰かを好きになって、やっぱり泣いて泣かせて、怒って怒られて、たくさんの失敗と少しの成功と……。余裕を持てるようになるには、それなりに時間と運は必要なんだろうという気はします。
そのうえで、どこかで妥協する。若干で良いではないか。私はよく仕事仲間と「目標の3割達成であれば、悪くない」ということを言い合っていました。目指すところの7割は届かない。でもそれは3割には届いたということで、それは悪くない数字なんだと。
一応確認のため「若干」という言葉を改めて調べてみると、【じゃっかん】と読んで、その意味《それほど多くはない量、少しばかり、多少》に加えて、【そこばく/そくばく】という読みがあり、その意の中には《数量の多いさま、たくさん、程度のはななだしいさま、たいへん、非常に》が含まれるのです。あらまぁ、これは愉快だ。そうね、あわよくば3割に留まらず、たくさん伝わる、たくさんに届くのが素敵ではあるのは書くまでもありません。でもね、それはどうしたって難しいのよ。だからそれほど多くはないかもしれませんけれど、3割でよしと思う。これも鈍感さのひとつかもしれませんけれど(3割でOK説は、安全面が重視されるハード系インフラ系の支援では通用しないのでしょう。私の場合はソフト系、特に教育関連の経験から言えそうなことと改めて書いておきます)。
若干というのは、寛容とも通じている気がします。不寛容は、向いてない資質ですよね。まぁいいか、と思える範囲が広いほうがイイに決まってます。だから、怒りんぼの人は、その怒る気持ちを諫める術を持ってほしいなぁ。
ノブレスオブリージュって、やっぱり贅沢な行為だと思うのです
ノブレスオブリージュという言葉があります。「財産、権力、社会的地位を持つものは社会的義務が伴う」という意味で、ひと昔の欧州での上流階級が「持てる者は、それを社会還元するべし」という戒めとして使った言葉だとか。
たまたま日本に生まれた。教養(学歴という意味ではなく)と思いやりのある両親のもとに生まれた。“平和”な社会の中で、学校にも行けた。そんな人生で、たまたま世界の理不尽に触れてしまった、出会ってしまった。だから、その理不尽をなんとかしたい、黙って過ごせない。
結局は、そういうことが多いのだろうと思うのです。それは、つまりはノブレスオブリージュとそう違わない。もちろん、あなたが権力者なわけではないし、社会的地位を持っているわけではない。でも、ラッキーな場所に生まれたのだろう。だからそれをどこかに還元する。それがたまたま海外協力だった。私は、多分そうだった。おそらくあなたもそうではないのか?
そして、それができるって、やっぱり贅沢な行為だと思うのです。ひとつ間違えば偉そうな行為だ。それでも、誰もができるわけではない。機会がある人だけが、それができる(だから贅沢なわけです)。だから、私も、あなたも、やる。
で、どうせやるなら、しぶとく。つまり、しなやかで粘り強く。つまり、できるだけ強靭な心を持って。より戦略的に。(そしてできれば周りを傷つけずに……)
頑張りましょう。そして、絶対に死なないように心がけましょう。怪我して車イス者になっちゃったら、連絡ください。多少はアドバイスできますから。じゃ、また。


















”国際協力師”だか”海外協力師”だか、その周辺で活躍した経験を持つ人を眺めながらその資質は誰にでも備わるものじゃないと思いながら今日まで生きて来ましたが、今この記事に接して改めてその思いを強くしました。
匿名様
国際協力師に限らず、すべての職業がそれなりに奥が深く、誰もがそれをできるというものでもないのではないかと想像します。たとえば私ができそうもない仕事がこの世の中にはずいぶんと多くありそうです。それは、私のその私にはできそうもない仕事への資質が欠如しているからでありましょう。
その点では、自分に相応しい仕事で食い扶持を得られれば、それは僥倖というものなのでしょう。私にとっては、国際協力支援の現場は、ときにしんどくもなかなか面白い舞台でありました。
村山哲也