長島茂雄さんを出汁(だし)にして考える、障害者的価値観の広がりについて。

モーターつきサイクルマシンで、足を動かしています。プノンペンの自宅にて。

オリンピック開会式での長嶋茂雄さん

 長嶋茂雄氏 車椅子での聖火リレーを拒否した強い執念という記事を目にしました。長嶋茂雄氏 車椅子での聖火リレーを拒否した強い執念 (msn.com)
 先のTOKYO2021開会式で、王貞治さんや松井秀喜さんと聖火リレーをしたときのことですね。脳梗塞で体に不自由がある長島さん、車イスを使っての開会式参加を打診されて、本人が「何としても歩いて(聖火を)繋ぎたい」と車イスの使用を断ったとのことです。なるほど。
 長島さん個人の思いを、ここであれこれ云うつもりではありません。ご本人がそう思って努力された結果、実際にご自分で歩かれたのですから、まずはご苦労さまということです。

 ただ、障害者世界に生きる者としては、少々残念な気もします。
 もし長嶋さんが車イスを使っていたら、しかもできれば手動式を松井さんに押してもらうというのではなく、電動式車イスを自分で操作して動いていたら、あるいは可能ならば最近実用化が始まった歩行補助ロボットを使って歩いてくれたら、どれだけそれに勇気づけられた人たちがいただろうかと想像するのです。実に惜しいことでした。

 もちろん、不自由な体で、松井さんに支えてもらいながら長島さんが歩くことで、勇気づけられた人も多いでしょう。あるいは、元気そうな長島さんを見て嬉しくなったファンの人たちも多かったのでしょう(開会式での実際のシーンを見ていないので、どの程度の距離を歩いたのか、どんな風に松井さんに寄り添ってもらったのかは判らないまま書いています)。それでも、さて、高齢化社会が今後ますます進む日本、そして日本だけではなく、高齢化社会を迎えようとしている世界の少なくない社会に向けて、ヨロヨロと歩く長嶋さんと、電動車イス(たとえば次世代型電動車イスWHILLとか、かっこいいやつ)に乗ってさっそうと進む長嶋さん、あるいは電動歩行補助ロボット(たとえば、“着る”歩行支援ロボット curara(クララ)とか、かっこいいやつ)でニコニコと進む長嶋さん、どちらが多くの人を勇気づけただろうか?と、まあこれは意味のない愚問ではありますけれど、考えてしまったりもするのです。そりゃ、WHILLとかcuraraのほうが、オー!!スゴイじゃん、ってなったんじゃないかなぁと思うのです。

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次世代型電動車イス WHILL
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“着る”歩行支援ロボット curara(クララ)

 もしかして、実は、あれは次のパラリンピックへの序章だったのではないか、なんて想像するのは楽しいことです。パラリンピックの開会式では、最新技術の支援を受けた長嶋さんが、今度はひとりでさっそうと聖火を運ぶシーンが用意されているのかもしれない。それは、きっとより多くの障害者、高齢者、将来の高齢者たちを激励することになるに違いないんだけれどなぁ。準備委員会の人たち、どうでしょう?あるいは、長嶋茂雄さん、どうでしょう? やってくれませんかねぇ。

健常者からの視点、障害者からの視点

 おそらく、長島さんの視点は、今でも「健常者」なのだろうと想像します。つまり、彼の価値観は、脳梗塞で倒れた以後も、健常者としての視点を強く残したままなのでしょう。だから、「自分で歩く」ことに強くこだわる。もちろん、それは個人の自由、勝手で、傍からどうこう言うようなことではありません。特に、プロ野球選手さらには読売ジャイアンツ監督として一つの時代を築いた長嶋茂雄さんですから、自らの肉体的能力へのこだわりと肉体の衰えに対する喪失感は、人一倍大きいのだろうと推測します。そんな長嶋さんが、断固歩くことにこだわったのも、当然なのかもしれません。
 そして、長嶋さんのように、障害を得てから、あるいは老化を経た後も、いわゆる健常者としての視点と価値で世界をとらえようとする人は少なくないに違いないのです(だから、冒頭に紹介したような記事が書かれるわけで)。

 でも、余計なお世話だけれど、「だから苦しいんじゃない?」って思うこともあるんだよねぇ。「障害の受容」という言葉がありますよね。まさに、それに関係したことです。障害を得た自分を、障害を得る前の自分と比較して、どうしても低く見るような視点。失ってしまった能力を取り戻そうとする価値観。健常というのがスタンダード(基準)になった世界観。
 それでも、一般的に老化は一進一退を繰り返しつつどうしたってやっぱり進むし、失った機能が改善しない障害や病気はたくさんあるし、生まれたときから五体満足でないことだって、ある。だから、「あぁ、以前の自分はできたのに」とか、「あぁ、普通の人(?)ならできるのに」ということを嘆き続けるのは、やっぱりちょっと辛いよなぁ、そう思うのはもっともだけれど、でも、それに囚われてしまうよりは、囚われないほうがちょっと楽チンじゃないのかなぁと思うことが、あるのです。

 もちろん、諦めずにリハビリテーションをして、機能回復や機能獲得に努力することを否定するわけではありません。でも、はっきり書けば、無駄な努力であれば、それはつまんない。ましてや、本人ではなく、周りの人たちがそれ(儚い努力、儚い機能回復)を期待する、あるいは強要するのは、ぜったいにオカシイ。熊谷晋一郎さん(脳性麻痺で小児科医で、当事者研究の第一人者)は、名著『リハビリの夜』(医学書院)で書かれているように、往々にして特に障害を持つ児童の保護者がこの善意の罠にはまりやすい。もちろん、それは障害を持った児童の保護者には過酷な言葉です。私も、実際に当事者を前にしたら、健常者の視点や価値観から派生する支援に対して、それが“善意の罠”だとは簡単には告げられない言葉です。

 けれど、障害者の視点や価値観は、どうしたってなかなか健常者には持ちにくい。それだけ圧倒的に世界は健常者という多数で作り上げられてきたのだと思います。だって、例えば脊椎損傷で歩けなくなったら、それは施設で世間とは隔絶して暮らすことが、ついつい先の1964(昭和39)年東京オリンピックのころには当たり前だったのです。そして、つい最近まで重度の障害者はけして長生きできないと思われていた。今だってそう思っている人は少なくないでしょう。だって、実績がありませんでしたから。もし長命な障害者がいても、それは社会からは隠蔽されていた。
 私が障害を得てからお知り合いになった長命障害者のみなさんが、日本の歴史で始めて表立って誕生した、重度障害者の長生きさんの皆さんだったりするのだと思うと、彼らを見る私の視線は、もう感激でうるうるです。10代で事故にあった人が、車イス生活半世紀以上を超えて、今も80代90代で、公的介護を受けながらひとり暮らししていたりする。それぞれの地域社会で初めてのケースだったりするわけです。そうやって、時代は開かれていく。そして、そんな彼らが長い年月をかけて自己醸造してきた障害者としての視点が、すこしずつ社会に滲み出し始めている。それが21世紀ももうすぐ四半世紀過ぎようとしている「障害者世界」の今なのです。 
 障害者の先輩方、どうぞどうぞ、遠慮なくこれからも長寿をまっとうしてくださいませ。

次なるステップに向けて

 そしてね、以前も書いているかもしれませんけれど、障害者の視点というのは、高齢者の視点でもあるわけです。他者からの支援が必要な人たちというカテゴリーで考えれば、幼児、障害者、高齢者は、みんな同じです。支援をしてくれる他者というニーズを作り出している人が、幼児、障害者、高齢者でもある。そして、ニーズがあるというのは、つまり産業創出です。他者というのは、今や比喩でもあって、それはけして人間でなくてもいい。人工知能、ロボットにも大きく開かれた業界ということになります。あるいは、世界を股にかけることのできる可能性をはらんだ職業ともいえる。だって、世界中、どこでも幼児と障害者と高齢者はいますから。この点では、私は、海外労働者にも大いに期待する立場です。もちろん言葉の問題はあります。だって、いまさら英語だなんだと云われても、ねぇ。でもご安心ください。今、人工知能の翻訳能力はどんどん良くなっています。簡単なコミュニケーションであれば、もう書き言葉であればほとんど苦労なく翻訳されます。
 おそらく話し言葉の通訳も、これからますます便利になっていくでしょう。とすれば、素敵な介護師さん、世界には数多く見つかる日がやってくると私はかなり積極的楽観的に思っているのです。あとは、互いのコミュニケーションの練習です。この部分だけが、不安要素です。そのためには、今の教育システムの中に、境界を超えてやってくる人たちとの、あるいは自分が境界を超えていったときの、コミュニケーションの方法や哲学を学ぶ機会を取り入れなくちゃいけません。ここが難しい。関係者の人たちにぜひ伝えたいのは、つまり外国語教育に力を入れたほうがいいってことじゃないってことです。それよりももっと大事なのは、アンガーマネジメントと呼ばれたりするイライラや怒りといった感情をコントロールする技術、意地悪な気持ちをコントロールする技術、どうやって人の話を聞き、人に話を語り、優しい心持ちを保つという技術こそが大事なんだということです。外国語など話せなくても(そこはAI、人工知能、に任せればいい)いいんです。心の安定を意識して自分の意地悪な気持ちを閉じ込める技術をしっかり公教育で学ぶのが大切なんだと思います。それは技術ですから、伝達可能なはずなんです。
 けれども、教育って、どうしても保守的なんです。新しいことをやるための実験の場が、圧倒的に足りない。だって子どもたちを使って、実験して、失敗したじゃすみませんから。実験する側は何回でも機会はありますけれど、実験される側にとっては多くの場合、それが一度きりの機会なのです。
 だから、特に公教育は保守的です。新しいものを拒む。それは仕方がない面もあるのです。
 で、そこからが知恵の出しどころ。簡単じゃないけれど、そういう方向に進んでほしいなぁ。

 だからね、今回はたまたまブログの出汁に使ってしまって失礼しました、長嶋さん。でも、私は本当に思うのです。「無理に歩かなくてもいいのに」って。そこに“昭和”の匂いを感じてしまうと言ったら、それは偏見かなぁ。つまり、スポーツが、まだ根性主義で、まだ体罰肯定で、年功序列で、男尊女卑で、そんな時代の残り香。ぜひね、“平成”や“令和”の「長嶋さん」たちは、そこは軽やかに、例えば次世代型電動車イスWHILLや、 “着る”歩行支援ロボット curara やをまとって、聖火なりを繋げて欲しいと思います。
 問題はねぇ。WHILLもcuraraも、まだ高価なんですよねぇ(WHILLは100万円近くしますし、curaraも賃料月額8万円程度といいます、年間100万円かぁ……)。市井の障害者、高齢者が使うには、もう少し安価になってくれると、ますます喜ばしいんだけれどなぁ。そのあたり、公的補助がどう使えるかにもかかってくるし、まぁ色々と問題点はあるにせよ、どんどん進めよ公的福祉。どんどん広がれよ障害者・高齢者からの視点や価値観。
 元気だしていきましょう!

注!!)次世代型電動車イスWHILLに関して、上記に「100万円近くする」と書いてしまいましたけれど、それは数年前の古い情報でした。WHILLユーザーであるT氏から「村山さん、100万円のWHILLはもう販売していません。いま出回っているのは、価格半分、重さも半分、駆動するタイヤも半分です。でも、安い方で十分。これだと公的補助を使うと10数万の負担で買えます。介護保険を使えば2700円/月、使わずとも14800円/月でレンタル出来ます。WHILLを手に入れれば、みんな外に出る気になると思うんですけどねぇ」というメッセージを頂きました。購入しても50万円程度、介護保険が使えれば月2700円、それなら多くの方に手が届きますね!

追記*名古屋入国在留管理局で起こったスリランカ女性の虐待放置殺人事件や、東南アジアからの技能実習生らへの不当労働環境を考えると、「途上国の人たちに日本で働いてもらう」ことに楽観的になってはいけないような気もします。そうだよねぇ、まずいもんなぁ。
 一方で、閉じてはいけないと、強く思うのです。閉じれば、より一層差別は続く。途上国の人たちや異郷の人たちへの偏見は、千代に八千代にさざれ石の(いわお)となりて、続く。すごく乱暴だけれど、混ぜちゃえ混ぜちゃえ、とも思うのです。
 もちろん、混ぜることによって起こることが、より強い偏見や差別や紛争であってほしくはありません。でも、「単一民族」とか言っている単なる幻想によるかかっていい気になっているような思いが維持されるのも、すごく嫌なのです。    追記、でした。

 

3件のコメント

村山さんの幅が広い、奥行きのある主張(=”元気”)にどれだけ触発されて自分の今日の”心意気”があるのだろうか。
「ありがとう」なんてコトバは村山さんに対して失礼かなとも思いますが、正直な想いです。
7月も不注意で肺にちょっと傷を作り炎症が出て1週間病臥し、3週間ブラブラしました。
ようやく解放されました。動けるときに足を引きずっても動きます。
ぐうたら趣味を続けます!
歳とって来て、横に幅広い文章を追うのが億劫になってきましたが
これからもよろしくお願いします。
それにしても、村山さんがいつこんなに本や資料を漁って、アタマに詰め込み、
未だに維持しているのか呆気に取られていますよ。

いつもありがとうございます。 呆け爺:小野

小野先生 いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。

えーと、メールで届いたブログの記事、タイトルのところをクリックしてみてください。そうすると媒体(おそらくスマートフォン?)で読みやすい幅で再度表示されると思います。ぜひやってみてください。

いやいや、小野先生の偽装的枯れっぷり、ついつい騙されてしまいます。
そりゃ、いろいろ痛いところとか、不都合な箇所とか、出てきますよねぇ。それはまぁ自然の営みの上ですから、なんというか、そこはそれぞれ可能な範囲でつきあっていくということでありますよねぇ。
まだまだ、長いお付き合い、どうぞよろしくおねがいします!!!

再見、再見、人いずくんぞ淋しからずや。また一杯ご一緒いたしますこと、楽しみにしております。
最近のお写真も、ステキですね!!
未来永劫、楽しみにしております。まずは、お連れ合い様も含めて、どうぞお大事に、ご自愛ください。

村山哲也

 村山先輩!.こんにちは!!。
 いつも村山さんのブログで、楽しく社会勉強をさせてもらっています。豊富な語彙・斬新な切り口、アイデア。とても刺激的です。自然自然と村山先輩から受ける良い影響を、本当にありがとうございます。
 村山さんの今回の内容。今や重度障害者も豊かな生をまっとうし、しかも障害者支援はこれからの有望マーケット!!。はっはっはっ…今頃気づいたか、と私は村山さんが、私のビジネスオファーに半分乗っかった事を確信。村山先輩…今後とも宜しく…^_^!!。
 自分の中では日常化している、「障害」という地獄の淵の苦しみを・そしてそんな特異な生き様を、障害者本人の声で語って欲しい。そんなニーズを、私もあちこちで感じます。
 村山さんの両足が不自由という重度の障害・そして異国の地でのハードな生活。困難の種は尽きないのではないかと察します。
 少しずつではありますが、村山先輩の文章…噛み締めるように噛み締めるように一作ずつ拝見させて頂いています。これからも陽気でユーモアのある、そして途上国開発支援員という鋭くキレのある特異なキャリアを活かして、楽しい楽しいブログをどんどん発信してください。応援してます‼️

        禍福は糾える縄の如し…むねお^_^

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