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ゴッホはピカソにはかなわない(あくまで当社比です)。
4月のカンボジアのお正月休みを利用して、パリを再訪しました。私は10数年ぶり、サンワーは27年ぶりのパリです。
私にとって、一番の楽しみはピカソ美術館でした。10数年前、ピカソ美術館は全面改修で2年間ほど閉まっていたのです。それ以来、ずーっと訪ねてみたい美術館でした。
若いころはピカソのことは好きじゃなかったんです。わけわかんない絵。
その感覚に大きな変化があったのが20代最後の青年海外協力隊参加の後のこと。
パリのオルセー美術館で、ピカソの絵を眺めたのです。青の時代と呼ばれるピカソの20代前半のころの絵でした。私の記憶では、青年がたたずんでいる、そんな絵。
上手い! と思いました。絵について私はずぶの素人ですから、上手いも下手もよくわかりもしないのですけれど、そのピカソの絵に私は撃たれたのです。
そのときまで、ピカソよりもゴッホの絵のほうが好きだった。オルセー美術館は、ピカソよりもむしろゴッホの絵のコレクションのほうが有名です。当然、ゴッホの絵も見た。けれども、そのときの私は、ゴッホの絵には魅かれませんでした。ゴッホの絵には苦渋がにじんでいて痛々しい感じがしました。ゴッホの努力を認めることが、絵を見るこちら側にも強要されているような感覚。何より、ピカソと比べてゴッホは、下手だった。
ピカソの絵にも苦渋はあった。けれども、その苦渋はゴッホの絵と比べるとずっと透き通っていて、もっと崇高なものへと昇華していた。あぁ、ゴッホはピカソにはかなわない。ピカソは天才だぁ。そんなふうに思ったことを覚えています。それ以来、私はピカソファンなのです。
念願のピカソ美術館
宿からバスを乗り継いて行きました、念願のピカソ美術館。パリの美術館の多くは事前に予約した方が入場がスムースだったりするようですけれど、そのほとんどで車イス者の私は優先的にしかも無料で入場できちゃう。ピカソ美術館も、予約取らずに列にも並ばずに入場できました。
それほどは大きくない美術館に、ピカソの絵だけが飾られている。私にはそれが良かった。
ルーブルやオルセーは広く、さまざまな作者の絵を見ることができます。けれども、どちらも拝観後、お腹がいっぱいになり過ぎてしまうような気がするのです。胸やけして、疲れちゃう。それと比較して、私にはちょうど良い規模だと感じました。胸やけ無しで、食べられる(観ることができる)量。
どちらかといえば後期の絵が中心のコレクションで、青の時代の絵がなかったことはちょっと残念でしたけれど、私はピカソ美術館での半日をとても楽しく過ごしました。

凄みを感じる仏領時代のアンコールを巡る仏研究家の歴史
パリ滞在約一週間の具体的な予定は、それほど事細かには立てないままパリ入りしました。そして、たまたま友人と昼食を一緒した場所の近くにあったのが、ギメ東洋美術館。ここは仏領インドシナ時代(1863~1954)にフランスがアンコール遺跡群から持ち去ったものが多く展示されていて、機会があれば行きたいなと私は思っていたのです。
当時は重機もなく人力が主だったわけで、道路も未整備な状況で、よくまぁこんな重たいモノを運んだものだと感心します。その経緯には、現在の価値観からすれば横暴とも言える欧州中心の植民地主義があった。
けれども、歴史の渦中においてそれを認識することは簡単ではありません(それでいえば、21世紀前半を生きる私/私たちも、未来からの批判はあれこれと覚悟せねばなりますまい)。そして、フランスによるアンコール遺跡群の研究の歴史を振り返ると、植民地主義的価値観は横において、その激烈ぶりには多少の感銘も受けるのです。
飛行機もなく、電話もはったつしない当時、アンコールの地はフランスから現代では想像もできないほど遠かった。医療施設だって未整備で。そんな中、研究者たちは、それこそ命がけでインドシナまでやってきた。
中でも、研究機関として有名だったのが19世紀末にサイゴン(現在のホーチミン市)に設立されたフランス極東学院です(その後、学院はハノイに移転するも、その管轄下として1907年にアンコール遺跡保存事務所がシュムリアップに開かれた)。
アンコール遺跡群の修復・研究では、日本の石澤良昭氏(上智大学教授、上智大学アジア人材養成研究センター特任所長)のお名前がよく知られています。そして、フランス研究者の中に何人もの石澤先生クラスの偉人がおられるわけです。
15世紀以降、密林に埋もれていたアンコールワットに1860年にたどりつき、その著作で欧州に紹介したヘンリムオ(博物学者、著作が出たのは1861年に彼が亡くなった後のこと)、いやいやヘンリムオより先にアンコールワットを見つけたのは俺だと主張したヴイユヴォー(神父)はどちらもフランス人。ヘンリムオは、アンコールワット到達後もインドシナを歩き続け、ラオスでマラリアにかかり客死しています(ちなみに、ムオがアンコールワットを訪ねた1860年、その地はカンボジアではなくタイの領土だったというのは、また別のお話。現在のカンボジア王国西北部のシュムリアップ、バッタンバン、バンティエイメンチャイらが仏国の干渉によってタイからカンボジアに返還?されたのは1907年と、わりと最近のことなのです)。
そして、研究途上で客死した多くの仏人たち(いや、当地で死ねばすごい、ってわけじゃけっしてないですけれど)。すいません、手元にあるはずの資料本を探したのですけれどすぐに見つからず。ここでは、そんな研究者の中からアンリパルマンティエ(1870~1949)とジョージグロリエ(1887~1945)のお二人だけの紹介を。
パルマンティエ氏は、1900年に実施されたインドシナ考古学調査隊に参加した考古学家・美術史家です、長くフランス極東学院の考古学部門責任者を務め、カンボジア・ベトナム・ラオス各地の遺跡の調査と修復に従事しました。第一線から引退後も故郷仏国に戻らず死ぬまでプノンペンで暮らしました。アンコールワットに関して最初の観光ガイドブックを作製(出版されたのは死後)したのも彼だそうです。
またグロリエ氏は、息子のベルナールフィリップグロリエ氏が父親以上にアンコール研究では著名、現在の王立美術大学(私の義姉がこの大学楽団のフルート吹き、義妹が舞踊の講師です)の初代校長で、アンコールの地で朽ち果てていた彫像・石碑など多くの逸品をプノンペンに運び、現在のプノンペン国立博物館の基礎を創設した人です。アマチュア無線が趣味であった彼は、1945年に日本帝国軍が仏領インドシナの仏軍を武装解除した後にスパイ容疑で日本軍に逮捕され、そのままプノンペン刑務所で獄中死しました(死因は私は知らないままです、63歳でした、病死?拷問死?)。
グロリエ氏の場合は、望んで客死したわけでもなく、また彼は仏人外交官吏の子でプノンペン生まれでありましたから、つまり故郷で死去したわけです。けれども。
彼らに代表されるような気合いの入った人たちが、フランス植民地の背景には何人もいる。そこに私は欧州植民地主義の凄みのようなものを感じたりするのです。
そして、今回、ギメ東洋美術館で見た重たくて大きいアンコール遺構の数々。重たくて大きいといえば、ロンドンの大英博物館の中東地域からの略奪品なんか、もっとものすごいものがありますけれど、ね。あらためて、「よくやるなぁ~」と感じ入ったのでした。

車イス者、パリ市内の移動について
さて、車イス者のパリ市内の移動について、ちらっと。
多くの情報源が「地下鉄はまったく使えない」とあります。確かにそうらしい。けれども、唯一地下鉄14号線は、全駅にエレベーターがあり、車両とホームの段差もありません。
宿(パリ13区、トラムのPorte d’Italle駅からも近い場所)が偶然14号線のMaison Blanche駅から近かったのです。パリ中心部(シテ島にあるノートルダム寺院から、セーヌ川右岸方面)の往復に数回使いました。地下鉄14号線の問題点は、地上のどこにエレベーターがあるのか、特に市内中心部の地下通路が広がるエリアでは、とっても判りにくいことです。私はChâtelet駅地上で車イスで地下に降りる場所がわからず、途方にくれました。
パートナーのサンワーが階段で地下におり、駅員に訪ねても「English?Non!」で対応してくれなかったとのこと。結局渋々とバスで宿に戻り、地図でエレベーターの場所を確認して、後日再度トライしました。一度わかってしまえば、あとは簡単なわけですけれど……(東京の地下鉄各駅のエレベータ口も知らないと苦労しますから、まぁそういうもの??)。
地下鉄14号線よりも頻繁に活用したのが市バスと、トラムという環状線です。どちらも全車両が車イス対応です。
確かに、バスはその経路がわかりにくい。私はインターネットでバス路線図とずいぶん格闘いたしました。調べるのが無理~ってなると、辛いかなぁ(今から思うと、例えば地下鉄14号線も、インターネットで検索しても延長前の古い路線図が多く出てくる!!)。
バスで気をつけたいのは、一部停留所では車イスの乗降ができないこと。特に古い町並みが残る中心部に、乗降できない停留所が点在します。インターネットで調べると、たとえばノートルダム寺院周辺のバス停は、軒並み車イスでの乗降はできないと表示されていました。
けれども、実際にその場に行ってみると、乗れた(乗せてくれた)!ってことも数回あったのです。どうやら、だんだんと舗道の整備が進んでいて以前はダメだったのが今はOKという停留所がいくつもあるようです。そして、その情報がインターネットの路線図にアップデートされていない。うーん、日本でもよくあるケースだよなぁ。
地下鉄14号線のエレベーター位置と同じで、一度使ってわかってしまえばバス路線もとっても便利でした。

加えて、私はシャルルドゴール空港から市内へはタクシーを事前予約して活用しました。車イス者になる前は電車と地下鉄を乗り継いで市内に入りましたけれど、車イスでは(無理すればできないことはないけれど)厳しい。スーツケース等荷物を持っていれば、なおさらです。私が使ったシンガポール航空便がドゴール空港に到着したのは22時過ぎで、移動が深夜になってしまったこともあり、今回はタクシーを奮発したのです。
これは私はおススメだなぁ。私たちはロストバゲージが発生して、到着口を出ることができるまでずいぶん時間がかかったのですけれど、タクシー運転手は連絡なしでもちゃんと出口で待っていてくれました。まぁこれは運転手の個人差があるのかもしれませんけれど。
インターネットでのタクシー予約時に、英語がわかるドライバーを選択すると料金が多少高くなる傾向があります(シーズンによっては倍ぐらい違うかも)。けれども、私が使った印象では、英語話者である必要性は高くありません。宿と飛行場の往復ならば、事前に宿の住所を書き込む必要があるので、運転手は会ったときには行き先をすでにご存知です。ですから、ハーイ、だけでなんとかなる、多分、おそらく、きっと。
とにかく、パリ市内車イス移動情報欲しいという方がおられましたら、遠慮なくメールで連絡ください。 muraymuraymuray@gmail.com まで、どーぞ。
パリで体調悪化し、プノンペンに戻った翌日夜救急車、でしたとさ。
で、このパリ滞在中の最後数日、体調崩してひどい血尿発生。帰路便では血尿以外は特に体調悪化しないですんだのですけれど。月曜日朝にプノンペンに戻り、翌日火曜日夜に高熱で救急車発動、病院のICUに運び込まれる(以下、数回前の当ブログ記事参照のこと)だったわけです。はい。やれやれ、まったくなぁ、人生は辛いよ??
でも、パリに責任があるわけじゃないですから。楽しかったですよ、はい。また行きたいのだよなぁ。パリ以外にも、行きたいとこ、まだたくさんあるしなぁ。それはそれで困ったものですわ。

















ゴッホはピカソにかなわないか、どうかを私は悲しいかな何の知識もないので自論を持ち得ません。それよりまあ、村山さんの知識欲がもたらすのでしょう2回もフランスに行かれて・・・。脱帽です。車椅子でドンドン移動されてこのこともすごいですよ。村山さんは『当然でしょ。』と言われるでしょうが私にはすごいことです。私には引率される以外にはパリに行くことはないでしょう。