トックタライ(魚醤)→ 微妙な隣国同士の関係 → 心の中の闇

メコン川とトンレサップ湖を結ぶサップ川に浮かぶ漁民の小さな船

〝トック〟は水、〝タライ〟は魚。トックタライはカンボジア語で魚の水、魚醤のことだ。隣国のタイでナンプラー、ベトナムならニョクマムという名になる魚醤は、この地域でもっとも一般的な調味料で、多くの料理で味付けに使われる。

 カンボジアでは淡水魚を原料とした魚醤が一般的だ。雨季の終わりのもうすぐ乾季が始まる10月ころ、雨季に肥大したトンレサップ湖から、水位が下がり始めたメコン川に向かって湖水が決壊した涙のようにして一気に流れ出始める。その流れに乗ってトンレサップ湖周囲の浸水林[1]を揺りかごにして育った多くの魚がメコン川に吐き出される。トンレサップ湖とメコン川とをつなぐサップ川には、その魚を捕らえるための多くの魚網が仕掛けられ、そこで捉えられた小魚が魚醤の原料となる。

 仏教徒であるカンボジアの人たちは、魚を殺す漁民の仕事を好まないという。サップ川に仕掛けられる魚網の多くは、メコン川を下流から伝ってやってきた漁師が管理している。彼らの母語はベトナム語だ。そんな人たちのなかには、トンレサップ湖やサップ川沿いに水上村を作り、さらには陸上に集落をつくってカンボジアに定住する人たちも多い。彼らはベトナム系カンボジア人ともいえる。

 カンボジアとベトナムの関係は複雑だ。歴史を顧みれば10世紀に今のハノイ方面に中国から越南国と呼ばれた小国家が起きた。北の中国の圧力に耐えつつ越南国は徐々にその勢力を南に延長していき、17世紀の終わりにはメコン川三角州へ到達する。そのころのメコン川デルタは、人口密度は低いながらもカンボジア語を話す人たちが多い地域だった。ホーチミン市(カンボジアの人たちは、旧サイゴン、現在のホーチミン市を、カンボジア語の呼び名〝プレイノコー〟と呼ぶ)を始めとするメコンデルタは、もともとはカンボジアの土地で、それがベトナムに奪われたという意識が、現代のカンボジア社会には強くある。実際メコンデルタには、今でもカンボジア語を母語とするカンボジア系ベトナム人が多く生活している。

 さらにフランスがインドシナを植民地化した仏領インドシナ時代に、各地の管理をベトナム人官僚に委ねた。つまり、カンボジアやラオスでも、上級行政官はベトナムから人が配属された。そのことが、余計にカンボジアでのベトナムへの反感を強めることになった。

 ベトナム戦争のとき、米国は「ベトナム全土が共産主義化すれば、ドミノ倒しのように、東南アジア諸国に共産主義が広がっていく」というドミノ理論に怯えていた。北ベトナムのホーチミン主席は、反米の象徴でもあり、米軍と闘ったインドシナの共産主義派すべての指導者であるように世界は感じていたはずだ。
 ところが、後にインドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)での共産党の内実がわかってくると、そこでもベトナムが主導することへの反感が、特にカンボジアでは強かったことが明らかになっている。実際に「ホーチミンは、われらがシハヌーク王を騙して、カンボジアの領土をうばった、カンボジアにとっては裏切り者」という評価がカンボジアでは根強くある。特にカンボジアの海に面したカンポット市のすぐ沖ににあるフーコック島(ベトナム領)の領有に関しては、以下のような説がカンボジアでは語られている。
 「戦争協力をしてくれれば、フーコック島をカンボジアに返すと、ホーチミンはシハヌークに約束した。ベトナム戦争がベトナムの勝利に終わったとき、ホーチミンはこの密約を守りたくないが故に自殺した。その結果、カンボジア領となるはずだったフーコック島は今もベトナム領のままだ」
(しかし、ホーチミンが死んだのはベトナム戦争が1975年に終結する6年も前の1969年だ。ホーチミンの悲願だったベトナム統一までの道筋がまだ決定的ではなかった時点での自殺説は、やはりありえない。)

 もちろん、この説が公に語られることは現在のカンボジアではない。しかし、根強い噂としては残っている。ぼくも、カンポット市でその話を、教育行政官から直接聞いたことがある。彼は日本の「北方領土」についても詳しく、「(ロシアが日本に帰さない)北方領土とフーコック島は同じだ」と苦々しく語ったものだった。
 そんなわけで、ホーチミンの評判は、カンボジアではすこぶるよくない。特にポルポト時代、ポルポト政権はベトナムへの憎悪を強くあおった。
 

 しかし、ポルポト時代というカンボジアの悪夢を終わらせたのもベトナムだった。ポルポト軍による度重なる住民殺戮を含む越境行為に対して、ベトナム軍は1979年12月にカンボジアに侵攻し、ポルポト勢力をタイ国境沿いまで追い払う。そして、カンボジア全土が強制キャンプと化していた状況から、人々を解放した。カンボジアの人たちのベトナムへの大きな憎悪に、わずかばかりの感謝が加わったことになる。
 今のフンセン政権も、基をたどればベトナムに支援された傀儡政権だ。だからフンセン政権は、ベトナムからの干渉がすでに終わっていることを強調しつつ、ベトナムとの友好も維持するという微妙な舵取りを続けている。
 たとえば国政選挙のたびに、政府がベトナム系住民に選挙権をばらまいていると野党は批判する。それに対して政府は選挙権の問題は棚上げしつつ、国境問題に関してはベトナムに対して強い姿勢を取っていることをアピールする、という具合だ。
 隣国との関係は、どこでも難しいということのようだ。特に「侵略された側」の思いは、簡単には忘却されず、ときに固定化する。

メコン川とトンレサップ湖をむすぶサップ川の中継地コンポンチュナンで (本文とは関係ありません)

 カンボジアの生物教員たちと、アンコールワット観光の拠点地として知られるシュムリアップに野外研修に行った際のこと。

 浸水林の観察も兼ねて、私たちはボートを借り切ってトンレサップ湖に出て、そこにある水上村のレストランに立ち寄った。湖面に浮くそのレストランは、屋根に展望台を取り付けていて、そこに登ると浸水林の広がりを観察するには好都合だ。午後遅くの日差しの下でぼくたちがそこから展望しているとき、レストランの脇の水面を小さな舟が1艘通っていった。ひとりの編笠を被った女性が、ボートを立ち漕ぎしている。編笠はベトナム風の特徴があり、立ち漕ぎもベトナム式だ。

​​ すると教員のひとりビソッカ(仮名)がすかさず「ユオン!」と一声鋭く叫んだ。〝ユオン〟とはベトナムの人に対するカンボジア語での呼び名で、使い方によっては強い蔑称となる。ビソッカの声はまさに悪態、強い否定、強い憎しみを、明らかに伴っていた。

 ビソッカはほぼ私と同世代で、10代中頃にポルポト時代を過ごしている。
 ぼくの関わり方に強引なところがあったのだろう、彼女はなかなかぼくに心を開いてくれない教員だった。加えてただ単にぼくのやり方の問題だけではなく、彼女の警戒心が強いのは、彼女が心の中に頑なな何かを抱えているせいでもあるようにも思えた。何か過酷なことを見てきたような。自分自身を守ることにどうしても意識が向いて、そのことに汲々としてしまうような。

 そんな彼女のベトナム蔑視の一声は、多感な10代をポルポト時代の狂気の中で過ごした彼女が、他者には理解し得ない痛みを心の深いところに抱いたまま今を生きていることを、ぼくに強く想像させた。そういう他者の心をのぞき込むような想像は、本来、慎むべきことだ。それでもビソッカの「憎悪」と、その根っこを推測してしまう自分の心に狼狽することと、その両方で、ぼくの気持ちはどうしようもなく沈み込んでいった。


[1] 浸水林とは、雨季に増水する河川や湖の氾濫原に位置し、浸水に耐える樹木で構成される森林のこと。〝洪水林〟と記述する資料もある。トンレサップ湖は乾季には琵琶湖の4倍程度の大きさで水深も1メートルほどだけれど、雨季には増水したメコン川からの川水がサップ川を通じて流れ込み、乾季の6倍もの大きさに拡張し、水深も9メートルに達する。その広大な氾濫原に発達したのが浸水林で、近年は伐採によって減少しつつある。

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