前回までの連載で、13世紀のアンコールでの胡椒栽培と、現代のカンポット胡椒との関係に焦点をあてた話は一段落させた。筆者の考えでは、13世紀の胡椒と、カンポット胡椒との直接の関係はなかった。そして、カンポット胡椒の起源は、17世紀以降に東南アジアで広がった華人ネットワークにあり、おそらく18世紀中ごろ以降に伝わった。(前回の投稿は以下)
次の展開に入る前に、ここでおさらい。カンボジアの胡椒が世界一とする出典の確認と、カンボジア現代史の中のポルポト時代について、この回で簡単に触れておく。
ブリタニカ百科事典日本語版にだけ書かれた“カンボジアの胡椒は世界一”
1972年(昭和47年)発行の『日本語版ブリタニカ国際大百科辞典』のカンボジアの項には、「カンボジアの胡椒の品質は世界一といわれている」という記述がある。この「日本語版ブリタニカ国際大百科辞典」は全30巻で出版されたもので、英語版エンサイクロペディアブリタニカの第14版改訂版に加え、フランス語で出版されているエンサイクロペディアユニバーサルシリーズのふたつを原典としている。
英語版エンサイクロペディアブリタニカは、1768年から1771年にかけて発行されたのが最初で、英語の百科事典では最古のものとされている。18世紀後半といえば、カンボジアではハーティエンに華人国家ができたころである。フランスではナポレオンが皇帝になり(1769年)、アメリカでは独立戦争が始まった(1775年)、日本では江戸時代中期の田沼時代(田沼意次が老中になったのが1772年)と呼ばれるころだ。
ブリタニカ百科事典(英語版)は、その後もなんども改定が行われ、1974年からは第15版が出版され、その改訂版である2010年の出版を最期にブリタニカ百科事典は紙媒体からは撤退しているした。
一方、フランス語のエンサイクロペディアユニバーサルシリーズは、エンサイクロペディアブリタニカの版権を持っていた米国の会社とフランスの会社との合弁会社が1966年に出版したもので、フランス語版のブリタニカ大百科事典だ。
日本語版に加えて、その日本語版が原典としている英語版、フランス語版それぞれの「カンボジア」の項にある胡椒の記述を次に並べて比較してみよう。
(日本語版)特にコショウ(約二五〇〇トン)はタイ湾沿岸で栽培される。土地がやせているのと病害によって、一般には下り坂とみられているが、華僑がカムポート州で栽培しているコショウの品質は世界一といわれる。[i]
(英語版)中国移民がカンボジア南部のカンポット周辺にコショウ栽培を取り入れている。[ii]
(フランス語版)コショウは中国人によって導入された商業作物であり、依然として彼らの手にある。ベトナムの国境とカンポットの間のカンポントラチェ地域では、土壌の疲労や病気のためにその栽培地のほとんどが放棄されている。カンポットとシハヌークビルの間のエレファント山地の裾に卓越した例外的な繁殖が移されている。すばらしい品質のコショウ二千五百トンを産する。[iii]
英語版はなんともそっけなく、日本語版の多くの情報が、フランス語版から来ていることがわかる。問題の「品質は世界一」に類する情報は、英語版にはまったく記述がない。フランス語版で該当するのは「すばらしい品質」という箇所だ。フランス語原文の記述は「qualite exceptionnelle」で、「qualite」は「品質」という意味、「exceptionnelle」は一般には「例外的」というような意味だ。「例外的な品質」、つまり「すばらしい品質」と訳せる。あるいは、「抜群の品質」だろうか。ただ、「世界一」と訳すのは少し飛躍していないか。「世界一」という描写は日本語版のオリジナルともいえる。「抜群の」を「世界一の」と意訳したのだろうか。それとも、日本語版執筆者が参考にした他の資料の中に「世界一」と記されたものがあったのだろうか。
ともかく、華人によって導入され海南人が育てたカンポットの胡椒は、19世紀末には抜群の品質として(主にフランスで)知られ、高級ブランドとして扱われるようになっていった。しかし、土壌からの病気の拡大によって1900年代中頃からカンポットの胡椒栽培は縮小し、さらに1975年からのポルポト時代の混乱の中で「絶滅」してしまう。
改めて、カンボジア現代史とポルポト時代のおさらい
『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』の連載では、“ポルポト時代”という言葉を、あまり説明もしないまま使ってきた。ここで、改めてポルポト時代前後の、カンボジア現代史にも触れておこうと思う。
日本がカンボジアに注目した最盛期は、1992年から実施された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)のときだったろう。自衛隊が最初に海外派兵されたのもこのときだった。もう28年も前のことだ。時間の流れの速さを感じて、筆者としてはちょっと驚く。それ以前であれば、ベトナム戦争、そしてその後のポルポト時代の印象が強いだろう。戦乱と地雷のイメージは、いまでもカンボジアにつきまとう。
もっとさかのぼると、日中・太平洋戦争の前は、カンボジアはベトナムとラオスも併せて仏領インドシナと呼ばれたフランスが支配する植民地(仏領インドシナ)の一部だった。終戦前の一時期には、日本軍による軍政下にも置かれている。
1945年(昭和20年)の日中・太平洋戦争の終戦後も、インドシナ半島では混乱が続く。ベトナムでは、フランスからの独立戦争、さらに北ベトナム(首都ハノイ)と南ベトナム(首都サイゴン)に別れて独立(1954年)後、米国の介入が招いたベトナム統一戦争という長い戦火の時代が続く。1975年4月にハノイ政権による独立を果たしてこのベトナムでの戦争は幕を閉じたけれど、ベトナムの戦火は隣国カンボジアにも大きな影響を与えることになった。
カンボジアは1953年にフランスから独立し、独立時にカンボジア王だったシハヌークは、政府掌握のために王の椅子を父親に譲ると、国際政治では中道路線をとり、国内政治では独裁政治を行った。しかし、1970年、首相ロンノルのクーデターによりシハヌークは失脚する。背景には、南ベトナム政府を支援する米国の、北ベトナム寄りの態度を示すシハヌークへ苛立ちがあった。この1970年のクーデター後、カンボジアは米国よりのロンノル政府軍と、それに対抗する勢力(北ベトナムに支援されていたとされる)に別れ、ベトナム戦争の戦場の一部と化す。
1975年、シハヌークとの共闘を掲げるクメールルージュと呼ばれたポルポト派勢力がロンノル政権を追い出し、1979年まで4年近く続くポルポト時代が始まる。ポルポトというのは、このクメールルージュ政権の指導者の名前だ。ポルポト政府は鎖国政策を取り、都市部住民をすべて農村に追いやり、貨幣経済を廃止し、学校教育や宗教を完全否定するなどの極端な政策を実施した。そして強制労働、飢餓、粛清などで150万とも200万ともいわれる人々が死んだ。当時の人口統計からみると、国民の4人にひとりを上回る死者という、猛烈な数字だ。
1980年にベトナム軍がポルポト勢力をタイ国境まで追いやった後も、米国とソビエト連邦による冷戦に巻き込まれたカンボジアの混乱は続いた。西側諸国(日本を含む)とソビエト連邦に反発する中国に支援されたポルポト勢力やシハヌークを支持する勢力が、ソビエト連邦やベトナムといった東側陣営の支援を受けたプノンペン政府(現在のフンセン政権につながる)と対立し、カンボジアの国内戦争は長く続いた。
この内戦を終わらせ総選挙を実施するための国際社会の取り組みがUNTACだった。このときには、日本から派遣された国連ボランティアひとりと警察官ひとりが、選挙実施に反対していたポルポト派に襲われ犠牲になった。この日本人2名を含む犠牲者82名[iv]を出しつつも、UNTACによる総選挙はなんとか実施され、新政府の下に再出発を果たしたカンボジアだったけれど、その後も1990年代後半まで不安定な状況が続いた。内戦が終結するには、ポルポト派がやがて分裂し、リーダーのポルポトが死去(1998年)するまで待たなくてはならない。
2000年代に入ってからのカンボジアは、フンセン首相の強いリーダーシップの下で、順調な経済発展を続けている。その一方で、広がる貧富の差や、フンセン政権の独裁化が進むなどの問題も表面化している。2018年に実施された国政選挙でも、フンセン政権の野党勢力への弾圧に対し、国際社会からは大きな批判が巻き起こった[v]。それでもカンボジア政府は、開発独裁の道を突き進んでいるように見える。
カンボジアの胡椒の歴史からみれば、仏領インドシナ時代から続いていたタイ湾沿岸部での胡椒栽培は、このポルポト時代にいったん途絶え、ポルポト後にほぼゼロからの再出発となった。この再出発に関しては、今後の連載でおいおい触れていくことになる。乞うご期待。
[i] 768ページ ブリタニカ国際大百科事典4 1972
[ii] 682ページ Encyclopedia Britannica Vol.4, 1964 翻訳は筆者による
[iii] 816ページ Encyclopædias Universalis Volume 3 ,1980、翻訳は筆者による
[iv] 犠牲者数82名に関しては、以下のサイトの数字を引用した。Wikipediaを参照することの問題は承知しているけれど、この数字の出典までは確認していない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E5%90%88%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%82%B8%E3%82%A2%E6%9A%AB%E5%AE%9A%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%A9%9F%E6%A7%8B
[v] 朝日新聞インターネットGLOVE+ 木村文『トッケイ7回鳴いたかな。』2018年8月21日記事「民主化しなくても豊かになる?不公正なカンボジア政権への日本の選挙改革支援とは」
https://globe.asahi.com/article/11750951

















イトウアキコさんから「コメント書いたけど、うまく送れない」とメールの方にいただいたコメント。
送ってみます。(村山記 コメント送りにくいみたいでゴメンナサイ。初期設定を厳しくしちゃったんじゃないかと思ってます。再検討してみます。イトウさん、いつも応援ありがとう!)ということで、以下、イトウさんから。
「ポルポト時代のおさらい」有難いまとめです。私も、カンボジアについての出前授業に行くためには、そこを抜かしてはカンボジアのことを話しできないので、このまとめ、有難いです。出前授業のためには、その学校で使っている教科書などを見ることがあります。村山さんのおさらい同様に、今から振り返ると、選挙監視に派遣された文民警察官の高田さんはポルポト派に襲撃されたと書いてあります。学校図書株式会社発行の現行道徳教科書中学1年に載っているUNTACの明石さんの手記にもそう書いてあります。もちろんその事実は誰もが認めているわけですが、それを、ポルポト派と言ってはいけない「何者かに襲われた」として23年間もかん口令に従ってきた警察の人たちの本、旗手啓介「告白 あるPKO隊員の死」2018年 を以前に読んでいたので、この道徳教科書の明石さんの手記を読んだとき、「それを教科書で言ってしまうのか」と思いました。文民警察の当時のチーム(確かボスはスウェーデン人)からプノンペンのUNTAC本部に「ここは戦闘地域だ」と連絡するのに、返事は「戦闘は終わっている」とつれない。そのようなことは、地方とプノンペンの空気の差として、たぶん今も残っていると思います。中学生に話すときには、全体をさっとまとめなければならないが、カンボジアへ行ったときには、その地方その地方で、すぐにまとめてはいけないものが残っていることを、これからも心に留めておきたいです。
イトウさん、
旗手啓介「告白 あるPKO隊員の死」2018年、はい、ぼくも読みました。この本は1993年5月の警察官高田晴行さんが亡くなった襲撃事件のこと。さらにはこの1ヶ月前にやはり活動中に撃たれてなくなった国連ボランティア選挙監視員の中田厚仁さん。どちらも、はっきりとはポルポト派とは言い難い政治状況がUNTACの中であったのですよね。特に、高田さんのケースは、その政治性に当事者の方々が巻き込まれた事例。
私も、この投稿書く際に、「ポルポト派と見られる」と書こうかどうしようか、迷いました。でも、あれがポルポト派側兵士によるものなのは確実。私が「見られる」と「遠慮」して書くことはないな、と思った次第です。
カンボジアで「気をつける」。わかります。たとえば、結婚式。私よりも少し上の人たちを見回せば、そこにはあのときポルポト派兵士だった人たちがいるかもしれない。あぁ、この場には「人を殺したことがある」人たちもいるのかもしれないなぁ、と、思います。そして、彼らには彼らの「プライド」もあることも知っています。もちろん、彼らも戦争被害者でもある。このことは、またブログで書くことがあると思っています。