人を撮るって、緊張します。
ぼくの周りにも、写真撮影を楽しむ方は少なくない。
中には、40代にして山岳写真家への道を歩みだしている女性もいる。すごいすごい。
あるいは、自然の中の小さな花をていねいにていねいに撮られている方もいる。彼の撮った野に咲く小さな花の写真は、それを見る者の気持ちをほっこりさせてくれる。写真て、ステキな媒体だなぁ、って思う。
先月、品川で開かれていた渋谷敦志さんの写真展に出かけた。写真展のことは、友人のIさんが投稿したフェイスブックの記事で知った。Iさんは渋谷さんとスーダンで知り合ったのだそうだ。そう、Iさんも海外支援のプロフェッショナルの道を行くぼくの“同志”のおひとりだ。
渋谷敦志さんは、1975年大阪生まれの写真家、フォトジャーナリスト。アフリカやアジア各地、その多くが紛争地、に出かけて、「境界を生きる者たちを記録し、分断を超える想像力を鍛える」というテーマで写真を撮り続けている。まっすぐなテーマだなぁと思う。写真展の場におられた渋谷さんと少しだけお話する機会があった。まっすぐさがそのまま表に出てくるような真摯さを感じさせる、いい意味での“若さ”や“迷い”を維持したまま40代後半に突入しつつある、硬い蕾がきっとこれから少しずつほころんでいくのだろう、なんてことを感じさせる人だった。彼の若さや迷いを感じながら、あぁ、人を撮るって、厳しいもんなぁ、迷うもんなぁ、と、改めて思った。(渋谷敦志さんの代表作は以下)。
もちろん、どっちが気楽かとか、そういうことではなくて、「人を撮る」「人にレンズを向ける」という行為には、自然相手に写真を撮るのとは違う側面が確かにあるような気がする。ぼくも、人のいない風景にカメラを向けるほうが「楽」だ。人にカメラを向けるときは、風景を撮るのとは違った「緊張」がある。
ぼくのカメラ遍歴
高校生のころ、ベトナム戦争の写真を多く見る機会があり、やっぱりカメラマンという仕事にちょっと憧れた。沢田教一や石川文洋、一ノ瀬泰造。その後も多くの写真家と出会う。ロバートキャパ、吉田ルイ子、ユージンスミス、三留理男、大石芳野、藤原新也、長倉洋海、桃井和馬、野生動物を撮った竹田津実、岩合光昭、星野道夫、最近では独自の文化を維持する人たちに体当りしたヨシダナギや、世界をまわって写真を取り続ける石川直樹、などなど、ステキな写真家は数多い(尊敬の意を込めて、敬称を略しております)。みんな、すごいなぁ、と思う。
意識してぼくが写真を撮るようになったのは、やはり海外生活が始まったケニアが最初だと思う。20代後半だ。ケニアに向かう前に、よく考えて選んだカメラは京セラの小さな全自動カメラ、KYOCERA Tscope Carl Zeiss 2.8/35だった。もちろん、35mmフィルム写真だ。このカメラはとても気にいっていたんだけれど、ケニアを去る直前に職場に置き忘れて、そのまま消えてしまった。

中古市場でまだ出ていた!そこから写真拝借。
1994年春に開発系の大学院に進学してスリランカに調査に出かける際に改めて購入したのは、今度はコニカの名機「現場監督」だった。大雑把なぼくが、カバンにポンと入れっぱなしにしても気にしないですむ防水防塵機能がよかった。あと、教室などをワイドで撮影するために、28mmレンズにこだわった覚えがある。このカメラは、主にフィリピンで活躍した。

さらに、大学院にいたころ、ベトナムのホーチミン市で、たまたまカメラ屋で見てしまったニコンFM10という一眼レフカメラがどうしても欲しくなって衝動買い、たしか200ドルぐらいだったんじゃないかな。このカメラは、絞り・シャッタースピード・ピントのすべてを自分で操作するフルマニュアルカメラで、カメラのメカニズムを知るにはとてもいい買い物だったと思っている。ただ、一眼レフの中では軽いタイプなのだけれど、普段持ち歩くにはやはり大きいし、重い。ということで、あくまで玩具でしたけれど、楽しかった。

2002年にカンボジアでの仕事の際に、いよいよデジタルカメラが登場する。ぼくが初めてつかったデジタルカメラが、キャノンのIXY DIGITAL 320。キャノンを選んだ理由ははっきりしていて、当時プノンペンにキャノンのカメラを修理できる場所があったからだった。そして、IXYは何回も壊れた。カンボジアで働いているときに、IXYの新しい世代にも手を出したはずだ。そして、それもよく壊れた。ぼくの手荒な使い方が悪いのだろうけれど、やっぱり「現場監督」系のタフなカメラがいいなぁと思ったことを覚えている。

そして行き着いたのがこれ。PENTAX 防水デジタルカメラ Optio WG-2。
防水12m、耐ショック1,5m、防塵性能、耐寒性能、耐荷重構造というアウトドア使用のデジタルカメラ。amazonで2012年の購入記録があるから、ルワンダに行く前に新たな気持ちで購入したんだろう。もしかしたら、これは同じシリーズの2代目のような気もします。ルワンダでの事故のときにもズボンにぶら下がっていて、共に助かった。
最近は、携帯のカメラ機能に押されて、なかなか出番がありませんけれど、まだ現役選手です。

撮るなら、ちゃんと撮ろう
プノンペン大学の構内にある日本カンボジア人材開発センターという施設で、カンボジアの理科の教員の卵の生徒たちを巻き込んで、近郊の小中学生を招待して、理科実験教室を開いたことがあった。そのときに、そのセンターのスタッフから「カンボジアに写真を撮りに来ている人がいる。その人がこの実験教室の様子を撮りたいと言っているんだけれど、いいですか?」と依頼され、もちろんOKを出した。かなり高価そうなデジタル一眼レフを手にしたまだ20代前半と思われるかっこいい男性がその人で、会場内の様子を自由に撮ってもらった。
ある場面で、ぼくと小学生がやりとりしているとき、その脇を通りながら、彼がカメラを地面近くに手で下げたかと思うと、カシャカシャカシャ、と連続してシャッターを切った。おそらく連続撮影機能を使ったのだと思う。もちろん彼はフレームを覗きながらシャッターを切ったのではない。カメラを持って歩きながら、ちょっと腰を落とすようにしてカメラを持った手を地面近くに持っていき、小学生とぼくを下から見上げるようなポジションでシャッターだけを押したんだ。オートファーカスで、さらにデジタル写真(失敗した写真のデータは捨てればいい)ならではの撮影方法だと思う。うまくピントが合っているかどうかは神頼み(?)、うまい構図になっているかどうかも運頼み(?)、それでもカメラを向けて迫るよりも「自然な感じ」で撮れてれば儲けもの、という意図を感じた。あれも、一種の「隠し撮り」だろう。とてもイヤーな感じがした。被写体に対して、失礼で、敬意のない写真の撮り方だと思ったんだ。
実験教室が終わってから、その人に一言「あれは失礼だと思う」と伝えようと思って本人を探したけれど、彼はすでに会場を去った後だった。結局、それっきり。
ぼくも、隠し撮りをしたことがある。別に写真なんかとってないよーというふうを装って、顔は別の方向を向きながら、被写体にむけたカメラのシャッターだけを切る。
ケニア北部のトゥルカナ湖近くの町でバスを待っているとき、近くを歩いていた上半身ハダカで民族衣装を腰に巻いた男性を撮るときにそうやって写真を撮ったことを覚えている。その写真が現像されて、どんなふうだったかも覚えている。それだけ印象に残っているというのは、間違いなくぼくが罪の意識を持ちながら撮影したからだろう。やっぱり、特別な理由もなく“隠し撮り”するのは、気持ちがいいもんじゃない。
特別な理由、たとえば報道写真とか、どうしてもその場面を撮りたいという自分の強い意思だろうか。絶対的な基準はないのかもしれない。
今回の投稿の最初のほうで触れた渋谷敦志さんの写真展。ある写真が気になった。アンゴラだっただろうか、内戦で腕の手首から先を落とされた障害者が撮影者の前に立っている。おそらく、その障害者はカメラマンに何か身振り手振りで何かを伝えようとしている。けれどその写真は、その人の首から下の胴体が写っているだけで、その顔はフレームの外にある。そして、彼から数メートル向こう側に、こちらをじっと見つめるふたりの子どもがいて、カメラのピントは、そのふたりの子どもの目に合っている。なんか、とても切ない構図だ。
カメラの位置は、撮影者が直立しているとすれば、腹の辺りになるだろう。かがみながらレンズを覗きながら子どもたちにピントを合わせたのだろうか?
渋谷さんに、直接尋ねた。
「あの写真はどうやって撮ったのですか?」
「どうやって撮ったというと……」
「カメラを持って、こうやってファインダーを覗きながら撮ったのか、それとも…」
「あぁ、あのときは腹の辺りにこうやってカメラを手で持って、シャッターだけ切りました」
「そうですか」
「隠し撮りです」
首から下だけが写っている障害者は、カメラを持ち取材を続ける渋谷さんになにか訳のわからないことをまくし立てるような状況だったそうだ。それに対応しながら、そっと撮った写真だそうだ。
そうか、そうやって撮らざるを得ない場に、この人は身を置いてきたんだな、と思いながら、ぼくは渋谷さんが話すのを聞いていた。
ぼくはけして写真家ではない。撮りたい写真はあっても、撮らなければならない写真は、きっとこれから先、ないだろう。そんなぼくは、これから“隠し撮り”をする理由もないだろう。あるとすれば、先の若者のように、ただ気に入った写真が撮りたいという思いだけ。
カンボジアでぼくが撮られた「隠し撮り」と、渋谷さんの「隠し撮り」と、その必要性も、逼迫感も、まったく別次元のものだ。ぼくは、あの若者は批判できるけれど、渋谷さんの「隠し撮り」をあーだこうだ言うことはできない。むしろ、やはり、ああいう現場を訪れ、そこで精一杯写真を撮り、それをぼくたちに届けてくれたことを感謝している。ぜひ、渋谷さんには、これからも撮り続けてほしい。
人を撮るのは、ぼくは今でも緊張する。撮るときは、ちゃんと撮ろう、と、今も思う。


















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