死を語るということ。さまざまな心持ち。

ルワンダ ニャンザに位置するかっての王宮後。乾草造りの王宮の屋根の上に浮かぶもうちょいで満月という月。今回の話題には月が似合うかなぁと選んでみました。2014年6月。

自分の死を、他人からの働きかけで意識するのは、やっぱり嫌なものかなぁ?

 近しい人が大病を患っています。高齢なので、それは自然なことという側面もあります。
その人に終活についての本を進呈したら、関係者に怒られました。縁起でもない、ということなんだろうなぁ。

 死は生きている者の全てに必ず訪れます。その訪れをどう迎えるか。
 人によっては、それは突然来て欲しいこと。別に死のことなど考えたり準備したりしたくはなくて、自分のそれがある日突然降って湧いたように起こってくれるのが理想的。だから、終活とか特にしたくない。死の準備なんてしたくない。淡々と今日をすごしたいだけ。そして、ポンと死ぬ。それが理想。理想のためにも、死の準備なんて耳にも目にもしたくない。

 私の妻は、ゆるやかな仏教徒です。けして信心深いわけではない。お坊様の祈祷で人生が左右されるとも思っていないし、寄進が次の人生を豊かにするとも信じていない。それでもなんとなく信心のようなものがあって、その背景はどうしたって生まれ育った社会環境から影響を受けている。
 彼女の生まれ育った社会、カンボジアのプノンペンに暮らす無名のカップルの基の生まれで、特に母親は真面目な仏教信者。月の暦に沿ってお寺へのお参りは欠かさないし、自宅の中に設置した先祖を祀る仏壇に毎日必ず手を合わす。ただ、そんな敬虔な姿勢は、家族の中では母親だけ。母親がお祈りをする同じ空間で、父親はラジオのニュースに耳を傾けるし、娘や孫たちはテレビのドラマに夢中。
 そんな環境に育った妻は、でも私が家族の死について語るのはひどく嫌います。つまりは“言霊”だと。死を語ることは、死を呼び寄せることに繋がるという感性を強く持っているのです。
 もしかすると当地カンボジアで保険がそれほど発達しないのは、単に経済的なことだけではなく、言霊を信じるという感性も影響しているのかもしれません。死に備えるなんて、縁起が悪いという心持ち。

 一方で、“厄落とし”という考えもありますよね。あえて話題にすることで、厄を落とす。

 さらには、必ず来るのだから、心構えや準備を、という考えも私には理解できます。特に最近は「死後の迷惑をかけたくない」という、なんというか“迷惑”に対する潔癖症にも似たような感覚も広がっているようにも感じます。そして、“損したくない”という意識も。相続税は、できるだけ取られたくないという思いが、生前贈与などへの取り組みを真剣にさせる。うむ、持っている人は悩みも多いね。

 私自身は、身近な人が闘病し、そして死を意識せざるおえない状況で、やっぱりその心持ちにはどうしたって関心があります。やっぱり怖いのだろうか? 日々、何を思うのだろうか? 明日目覚めることができるだろうか、という思いに襲われたりすることがあるのだろうか? つまり、現実的に死が遠くないと認識できてしまう状況で、彼は何を思うのか。それを想像して、例えば宗教学者の山折哲雄さんの新著『辞世の作法』(講談社学術文庫)なんかを私自身が読んで見たくて、で、どうせならとまずその人に送ってしまったわけですね。30歳のころ、大学院で山折哲雄さんの夏季集中講義を受けて以来、なんとなく親しみを感じたりしているものですから。「もし興味があるなら、手に取ってみてください。その気がなければ、放っておいてください。そのうちぼくが読みますので」というメッセージをそえて、ね。
 そしたら、その方のパートナーから「こういう本は、私は嫌いだ!」とメッセージが届いちゃったわけです。送った本人がどう思っているかは、未確認、わかりません。

 でもね、おそらく死を意識することって多くの人に共通した感覚だと思うのですよ。だって、終活関連の本、たくさーん出てますもん。
 ただ、そんな死に備える情報を、他人からもらうのは嫌な気分なのかもしれません。自分で情報収集して自分のペースで考え準備するのはいいけれど、他人には、たとえそれが親しい近しい存在であっても、あんまり触れてほしくない。そういうことなのかもしれません。そうね、それはそうかもね。

死の準備、どうしてます?

 ところで、私が山折哲雄さんの本を送ってしまった方のように、年齢を重ね、病を抱え、周りを見渡したって自分と同年代や少し年下の人たちの訃報を耳にすることが多くなって、つまり人生唯一、始めで最後の死に直面している人だろうと、私のようにまだ平均寿命までは間があるなぁという世代であろうと、もっと若者であろうと、もちろん死はやってきます。
 それでもその死の前にいくつかの段階が用意されているケースであれば、例えば発病があって、闘病があって、それなりに時間をかけながら確率論として死の高まりを自覚していくというケースであれば、その準備をするしないはさておいて、死に向き合う時間があることになる。もちろん、そこで敢えて向き合わないという選択もありますけれど、それはやっぱりその段階での死との向き合い方の一つ。
 それに対して、突然、本当に突然やってくる死もあります。事故なり、突然の死をもたらす病気というか体内変調で、さっきまで元気だった人が、昨夜まで一緒に談笑しご飯を食べていた人が、死ぬ。そんな死は、本人も周りも、ほとんど準備なしです。いや、中にはきちんと準備している方もいるかもしれません。わかりやすく自分の本籍の在り処を明らかにしてあり(必要なら過去の転籍の流れを示す過去の本籍の書類も準備し、これ死後の手続きに必要です、私は引っ越しの度に本籍を移すようにしていますので、過去の本籍地の書類は準備してあります、だって判っているのは本人のみですから)、財産分与のための遺書や、入っている生命保険の有無なども残している、とっても準備のいい人もいるかもしれません(私はそこまではやってません、けど)。

 で、準備していない人は、「もうそんなの成り行き、死んだら後はよろしく頼むわ」ってこと。ま、それもありだろうなぁとも思います。財産があろうとなかろうと、あの世までは持っていけないわけですから。それに、準備のいい人が死後のあれこれ、たとえば「葬式はこうしろ、ああしろ」という準備(あるいは明確な希望)までも用意してあったとして、それはそれでも残された者にはそれなりに困りものってこともあるかもしれません。「死んだらあとはよろしくねー」ってのは、ま、しょうがないよね、とも思う。

死ぬ心持ちへの興味(貧乏性ということ)

 そう考えると、私が関心があるのは、どうやら心持ちのことなんだなぁと改めて明確になってきました。みんな、死に対して(つまりそれは生に対して)、どんな心持ちで臨んでいるのだろう、日々過ごしているのだろう、ということ。それを知ってどうするということでもないのですけれど。
 50歳で大きな事故にあって大きな障害を得る前から、人生の残り時間についてかなり興味があるというか、残された日々がどんどん減っていくなぁという感覚は持っていました。でも、やっぱり一度死にかけたというか、ま、あのとき死んでても全然おかしくなかったなという経験を経て、さてこれからどう生きるかな(つまりそれは、どう死ぬかな)ってやっぱり少しは考えたわけです。

 特に、障害を得た後、同じように中途障害を得た人たちが囚われる「生きていてもしょうがない」「死んだほうがまし」という気持ちに直面したんだと思います。えーと、誤解のないように書けば、私自身はそういう気持ちからはまったくもって自由でした。「死んだほうがまし」なんて、これっぽっちも思ったことはありません。ただ、そう思う人たちがたくさんいるってことには、しっかり気がついた。そして、もし自分が若い世代のときに中途障害を得たら、どうだっただろうと想像しました。もしかしたら、50歳の自分は感じなかった負の思いに、若い自分は囚われたかもしれない、とも思うのです。

 そして、とりあえずの結論のようなものがあって、それは「生きる意味とか、価値とか、どうでもいいんじゃない」ってこと。そういうこと抜きで、命を考えましょうって思うのです。特に、他者の命に関して何かを思ったり語ったりするとき、とっても大事なマナーだと思うようになりました。「あの人、なんのために生きているのかなぁ」と口にすることは、人としてとても失礼な思索なんだと。そして、おそらく本人だって自分の生きる(存在する)意味とか価値とかに強くこだわらないほうが、純度の高い自由を手に入れることができる可能性が広がるんじゃないかなぁと思うようになったのです。
 自分がなんのために存在するのかを本人自身が考え、それを自分の正のエネルギーに転換していくことはあっていいのだと思います。むしろ、健康的(健康というのも、危ないキーワードですけれど)、というか多くの人が通る哲学的問いですよね。

 多くの人がそうであるように、私にもたどれば周りに自死という道を選んだ人がいます。そして、それについて肯定も否定もできない、なんともあやふやな自分(私自身)がいます。事前に機会があれば、もちろん止めたかった。徹底的に断固「死ぬなよ」と伝えたかった気持ちがある反面で、でも、どこかで「仕方がない」と友の死を受け入れる気持ちもあるのです。受け入れるほうが、私自身が楽ちんなのかもしれません。遅かれ早かれだなぁと、変に達観する気持ちもあるのです。それに「生きていればいいこともある」と伝えられるほど、単純にもなりきれない自分がいる。

 そりゃ、苦しいさぁ。生きてりゃ、苦しくて当たり前さぁ。
 だけど、だからと云って急ぐことはないでないかい。急がなくたって、絶対死ぬんだからさぁ。自分の死は自分でマネージメントしたいなんて、つまらない思いだよぉ。生まれるんだって、たまたまだろう? 死ぬときだって、たまたまなときにでいいんだよぉ。そのあたりは、コントロールしようとしなくて、いいんじゃない。急がなくていいんだよ。
 まあ、言えるのはそれぐらいか。

 そんなふうに思っている私は、突然に起こった7年前の事故の後、あのとき死んでても仕方なかったなぁとも思ったのです。むしろ、理想的な死に方ではなかったかと。やりたいことをやっていて、その中途で故郷から遠いアフリカの地で突然死ぬ。有りだったよねぇ、ちょっと惜しいことしたかなぁ、と思わざるを得ない。
 でも、そのどこか達観した思いは本物だったのかなぁって興味があるのです。それは助かったからこそ作られた達観であって、“突然”という装いに彩られた単なるかっこつけじゃないの?という疑問が湧くのです。
 もし、十分に時間が用意されただんだん近づいてくる自分の死を前にしたとき、あの事故のときと同じように死を受け入れられるだろうか?ということへの興味。やはり死を前にして、怖くて仕方がないものなのか? あるいはそんな死への恐怖心にさえ、人は、あるいは私自身は、慣れてしまえるのだろうか? で、私のけして豊かではない想像力では、突然死が明日に控えているという仮説(妄想)はほとんど効力を持たないのですよ。だめ、そんな仮説でもって死を考えようとしても、夜ベッドの上で目を閉じて湧いてくるのは雑念ばかりで、どうしたって死に向き合えない。

 結局、死については相変わらずの素人なわけです。そして、自分の死についての経験値はけっして上がることはない。間接的な他者の死を知るという経験値だけが上積みされるのみで、それは結局、自分の死とはかなり違うのだと想像するだけです。一方で、他者の死は参考にならないという予測がありつつ、でもやっぱり先人の経験から学ぶものがないかという浅ましい思いが湧いてしまう。それで山折さんの『辞世の作法』みたいな本がふと目に止まったりしちゃうわけです。あぁ、貧乏性だなぁ。

 まぁ、のんびりいくしかないよなぁ。コントロールしきれないことは多くあるし、それはそれでまったく問題ない。後の迷惑も、順繰りと思って、まぁ仕方ない。そういう風に思ったりしております。それでもときどき、「灰はメコン川に流してくださいね」なんて口にしちゃう間というのがありまして、妻にはその度にいやーな顔をされています。いやいや、申し訳ないこと、この上なし。

 

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