米国でのアフリカ系住民の絶望を想像してみる。
アフリカ系米国人が警察官や住民から銃で撃たれ殺される。裁判が開かれる。そして、それなりの理由づけはあるにせよ、銃を撃った人に無罪評決がでる。あるいは執行猶予がつく。
アフリカ系米国人からは、そんな判決に疑問の声が上がる。「黒人は殺されても仕方がない存在なのか?」。ニュースでは、社会からの不当な扱いに対して抗議の声が上がる様子が映し出される。
米国の肌の色の違いによる差別問題は、その根が深く、その背景を語るだけできっと長い文章が必要になる。たとえば裁判で言えば先にちらっと書いた「それなりの理由づけ」だ。米国の裁判は、被告が有罪かどうかを訴えた側(検察)と訴えられた側(弁護士)がそれぞれの主張を繰り広げ、それを陪審員がジャッジするというものだ。事実はなんであったかだけではなく、さまざまな戦略が繰り広げられる一種のゲームだ。たとえば、陪審員の選定からゲームは始まるという。たとえばアフリカ系市民が撃たれたとして、撃ったのがいわゆるWASP(アングロサクソン系の白人で、プロテスタント)だったりすれば、陪審員が白人系であれば有利となるらしい。あるいは白人系保守層が強い地域で裁判が開かれれば、それだけ被告有利な陪審員が選ばれる率が高くなる。そんな法廷闘争が繰り広げられると聞いている。
とにかく、そんな日本社会からはちょっと想像しにくい駆け引きを経て、被告に有利な判決が出ることがある。たとえば、正当防衛が訴えられ、認められる。日本でだって「黒人はギャングが多い」なんて思っている人がいるぐらいだ。そして、銃を撃った(撃ってしまった)被告側には、きっとそれなりの理由があったのだろうと多くの人が考える。だって、警察だし。「それなりの理由」。ときにそれは、むしろ殺した者への同情につながるものだったりする。「仕方がなかった」。
そしてそんな判決が、もうこれまで数え切れないほど出て、だからアフリカ系市民は絶望する。「私たちは殺されても仕方がない存在なのか?」
そんなアフリカ系市民の絶望を、米国で暮らした経験のない多くの「日本生まれ」のひとたちは、どれだけ理解し、共感することができるのだろうか。
重度知的障害児を殺した母親への判決とそれに対する世論
さて、17歳の重度知的障害者の息子を殺した母親に対して、京都地裁が懲役3年、執行猶予5年の判決を下したというニュースが12月13日午前中に流れた。知的障害がある長男殺害、母に懲役3年判決 京都地裁、執行猶予5年 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
事件が起こったのは2020年7月。殺された17歳の青年は、2歳半の頃にウイルス性脳炎となり、後遺症として重度の知的障害が残ったのだそうだ。その後、夫婦は離婚し、母親が障害のある子の世話をしてきたそうだ。そして、成長した青年は、支援学校高等部に通っていた。新聞の記事によれば、母親は支援学校高等部卒業後の進路に悩み、さらに自身の母親(青年の祖母)が認知症となり、介護疲れで鬱症状があったらしい。未来に悲観して、睡眠薬を飲ませた上で青年の首を締めて殺し、本人も後追い自殺を試みて、でも果たせなかった。(詳細は以下の記事を見てください)重度知的障害・息子殺害の母 「ごめんなさい。ちゃんと育ててあげられなくて」 13日、地裁判決 /京都 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
この記事が転載されたYahoo!ニュースには、これを書いている13日午後7時(日本時間)の時点で記事へのコメントが2118件寄せられている。知的障害がある長男殺害、母に懲役3年判決 京都地裁、執行猶予5年(毎日新聞) – Yahoo!ニュース
これらのコメント、100件ほど読んでみた。私が読んだ限り、そのすべてが被告に同情的なコメントだった。重度知的障害を持つ子どもを17歳まで苦労して育てた母親の苦労を想像し、そして未来に悲観する気持ちに共感するものばかりだった。そして、加えて、かなりのコメントがこのような家庭を支援する公的な支援が不足していることを指摘していた。「苦労し、悩む母親に、行政はもっと寄り添うことができなかったのか」という種類の声だ。確かに、もっと手厚い支援があればと思う。「私も同じように障害者を抱えた家族です」という書き込みも少なくない。そんな書き込みでは、実際に公的機関の支援が十分でないことを切々と訴えるものもある。
そして、私が目にしたコメントの中には、殺された青年の立場に立ったコメントはひとつもなかった。すべてのコメントが、いわゆる健常者目線で書かれたものだった。つまり、被告の母親と同じように身近に障害者(痴呆老人を含む)を抱え苦労している健常者、身近に障害者がいるわけではないけれど母親の苦労と絶望に共感する健常者、専門家的な知見から公的機関の支援を求める健常者等々、私が読んだのはすべてが健常者の立場からのコメントだったのです。
1970年代(50年前)から何が変わったというのでしょう?!
それを読んでいて、どうしたって1970年代に「青い芝の会神奈川支部」が中心になって訴えた声を思い出さずにはいられない。青い芝の会は、脳性麻痺者によるグループだ。
以下、杉本彰著『障害者はどう生きてきたか 戦前・戦後障害者運動史 [増補改訂版]』(現代書館2008)からの文章です。
一九七〇(昭和四五)年五月、横浜市で障害をもつ二児の母親が将来を悲観して下の女の子(二歳・脳性マヒ)をエプロンの紐で絞め殺すという事件が起きました。これに対してマスコミは、福祉政策の貧困が生んだ悲劇であり、施設されあればこのような悲劇は救われるとキャンペーンを張り、障害児の親の団体や地元町内会も減刑嘆願運動を始めました。これに対して「青い芝の会」神奈川県連合(六九[昭和四十四]年結成)は、ころされた女児と同じ脳性マヒの障害を持つものとしての立場から、「障害者を殺しても当然ということがまかり通るならば我々はいつ殺されるかも知れない」と反論し、「殺した親の気持ちはよく分かる」「障害児は死んだほうが幸せ」という一般世論を「殺された子どもの生命の尊厳はどうなるのか」と厳しく批判しました。(中略)裁判は第一回公判からわずか一ヶ月で結審し、判決は懲役二年、執行猶予三年という軽い刑でした。それは、社会が重度障害児の生命をその程度のもとして見ていることを示す、何よりの証拠でもありました。(79ページ)
ここで紹介した「青い芝の会」が声が上げたときから、50年、半世紀が立ちました。この青い芝の会神奈川支部の中心メンバーのひとりだった横田弘さんも2013年に80歳で鬼籍に入られました。
彼らの声は、今回の事件でも、半世紀前と同じままで通用してしまうのです。
この半世紀で、障害者をめぐる社会の視線はなにも変わっていないのじゃないか?そりゃバリアフリーは随分と進んだし、福祉だって50年前と比べれば多くの改善点があるでしょう。でも、本質的なところでは何も変わっていないのじゃないだろうか?
私が読んだ100人ほどのコメントの中には、今回の京都での事件を事挙げた後「だから出生前検査をより積極的に進めるべきだ」ということを書いた内容も複数ありました。つまり「障害者は生まれないほうがいい」というのです。半世紀で進歩したのは「障害者を選別する技術」であるかのように私は感じてしまいました。
確かに、殺した母親の側に立てば、いろいろと同情すべき点はあるでしょう。記事によれば、殺された17歳の青年が、母親に暴力をふるったこともあったようです。17歳の健常な男児がそのような暴力をふるえば、家庭内であっても警察が介入して、傷害罪に問われることだってある。けれども重度知的障害があれば、しかも未成年であれば、責任能力がないということになる。半年後に支援学校を卒業後に頼るべき施設も見つからない母親に同情が集まるのもよく分かります。
けれど、一方的に青年の側に立てば、だから「殺されても仕方がない」というのはやはり酷いでしょう。けれども、母親にくだされた刑期は3年と殺人に対してはけして重くはなく、さらに(50年前のケースと同じように)執行猶予がつきました。やはり今回も「 それは、社会が重度障害児の生命をその程度のもとして見ていることを示す、何よりの証拠」が示されたのではないですか?
どうか殺さないでください!
母親により厳しい厳罰がくだされたらどうでしょう。それは障害者を殺すことを認める社会の多数派に対して、警告的で抑止的な効果をもたらすでしょうか? 死刑制度があっても、社会の中での殺人は減らないというのが、もはや世界の常識でもあります。 (例えば、死刑に関するQ&A : アムネスティ日本 AMNESTY) ですから、もし今回の重度知的障障害者殺人事件で、被告の母親に厳罰が示されても、そのことによって家族の(あるいは介護者の)障害者殺人を減らす効果は期待できないでしょう。だから、ここで私が言いたいのは、けして「母親に厳罰を」ということではありません。
でも、母親への温情判決に同調して、ついでのように「公的な支援が整備されるべきだ」と声を上げることが免罪符のように使われるのを読むのは、私は辛くて仕方がなかった。母親に同情するならば、せめて母親を支援できなかった行政を被告席に座らせて欲しい。公的な支援がなく、だから母親ひとりに大きな負担がかかったから青年が殺されたのだとすれば、公的な支援を準備すべき立場の人を被告席に呼ばなければだめなんじゃないでしょうか。 あるいは、もっと突っ込んで書けば、そういう公的支援に予算をかけない行政府を支持してきた選挙民にこそ責任があるんじゃないのか? つまり、被告席に座らなければいけないのは、私たちなんじゃないだろうか? 最近の選挙でも「自己責任」を強く主張する野党が見た目躍進を遂げましたけれど、そういう政党を躍進させるこの社会こそが母親に青年を殺させたんじゃないですか?
私がここまで強く書けるのも、私が障害者だからでしょう。7年前に大きな障害を負っていなければ、今回の事件にここまで強く心を揺さぶられることはなかったでしょう。でも、書けるようになったのだから、書く。世間の多くは「障害者殺し」に加担していると、何度でも書きましょう。
(殺されても仕方がないという状況にある米国のアフリカ系の人たちの絶望が、今、私には、わかるのです。殺されても仕方がない、それはあなたが思っている以上に辛く切ないことだよ)
先に挙げたYahooニュースのコメント欄(この一時間でコメント数はさらに増えて、いま見たら2148に達していました)にも書くほうがいいのかもしれない。でも、それは止めました。だって、文字数も限られていますし、あの場に書くことに意味を見いだせずにもいるからです。それよりも、例え少数でも、読んでくれる人の顔が多少は見える自分のブログでまず書きます。
殺さないで、と、書きます。私たちを殺さないでください。苦しいのはわかる。でも、なんとか助けを求めましょう。探しましょう。あるいは、助けの手を差し出しましょう。あるいは、弱い存在に対して優しい政策をうったえる政党や議員候補に投票しましょう。
そうじゃないと、また、私たちは殺されます。半世紀、あるいはそのもっと前から、ずっと障害者は殺され続けているのです。そして、その状況に本質的な変化はないままなのです。つまり明日も来年も、障害者の誰かが家族や介護者に殺されるのです。冷静に「医療が」とか「施設が」とか言っている余裕は殺される障害者にはないのです。とにかく、やめてください、なのです。殺さないで。お願いですから。役に立たない、じゃまだ、希望がない、迷惑だ、そんなの知ったこっちゃないんですよ、殺される立場に立てば。生まれたんです、生きているんです。どうか、死ぬまで生きさせてくれる世の中であってください。お願いします。
お願いします。だれかひとりにでも、届きますように。
殺さないで。お願いします。

















同感です!生まれた命、意味があります。殺さないで下さい!どの命も大切、守り抜くべきです。
これ、難しいんですよ。
健常者の発想って、健常者の立場で、自分がもし、あんな状態になったら、生きていくのは嫌だ。
まず、そう感じるんですよ(いま、思う、考えるという単語を避けて、感じるという単語を選びました)。
自分も7年前までは、車いすになるくらいなら死ぬ。って、ためらわず言ってましたもん。
Tez
テヅさま コメントありがとうございます。
そう、そして世の中多数の健常者の人たちの立場で考えたことが中心で動いてしまう。
だからこそ、障害者の立場の意見を出していくのもあっていいと思うのです、一切の遠慮なしに。
健常者がわからない思いを障害者が抱えているとして、それをすべて健常者にわかってもらう必要なんかはない。テヅさんが書かれたように、わからないものでしょうし。別にそれはそれでいい。
ただ、わからなくてもいいから、せめて「殺さないで」と言っていくしかない。
健常者に、あなたたちのモノの見え方ばかりが、この世界の有り様ではないよ、と伝えていくしかない。
そんなふうに思っています。
村山哲也
櫛田美知子様 コメントありがとうございます。
「生まれた命、意味があります」と書いてくださいました。私はもっともっと過激に「意味があろうとなかろうと、そんなの関係ない」と思っています。「生まれた命」それだけでいい。それだけで、殺しちゃいけない、と思ったりしています。生きる意味、生きる価値、自分に対して問うことで人生が豊かになるならそれは素晴らしいこと。でも、他人に対して「生きる意味」「生きる価値」を問うことは、とってもはしたないことで、マナー違反だと思っています。
村山哲也
確かに、この世の中、健常者の世界です。
マスコミ連中も、医療者も、ほぼ、健常者者目線ですし、日常生活してると、ほとんどの一般人は、目先のことで、精一杯で、障害者のことなんか、何も考えてません。
日本人は、本音と建前を巧妙に使い分けて、生きてます。
まして、ここまで、経済的に破綻してくると、あと、数年で、障害者、医療、福祉なんて、真っ先に、切り捨てられるのでは、と、個人的には、思ってます。
カンボジアで生活してるのは、暖かいし、経済的にも、正解だと思います。
脊損者も、疼痛者は、あんまりいないようなので、また、考え方が、違うようにも感じます。
私のケースは、地獄的な、やけど灼熱痛に、日常的に、襲われるため、上手く、死ねれば、と考える事が多いです。
東南アジアには、毒物が、手軽に手に入るようなので、そういう面でも、興味があります。
私の場合、もう寿命なので、命には、未練はありません。
コロナ騒ぎで、大半の人は、死にたくないのが、よくわかりましたが、私には、理解出来ないでいます。
毎日のように、釜茹での刑、地獄の灼熱痛の繰り返しは、味わってる人間にしか、わからないだろうと思います。
小泉武敏様
コメント、ありがとうございます。
「ここまで経済的に破綻してくると、あと数年で障害者、医療、福祉なんて、真っ先に切り捨てられるのではと、個人的には、思ってます」
はい、この点は心配ですよね。
おそらく「経済的に破綻している」という理由をつけて、福祉政策が削られる危険性があるのだと私は感じます。経済が縮小しても、要はどこを削るかなんじゃないでしょうか?
福祉を通して回る経済もあるはずです。実際に、福祉が雇用や産業に貢献している面もある。
軍事費をけずるか、福祉をけずるか、それを決めるのも社会次第ではないでしょうか。
高齢化が進むのだから、より一層福祉を産業促進に結びつける政策があり得るんじゃないかと素人としてですが思うのです。
疼痛、どうぞお大事に。私も痛み止めを飲んでも眠りながら「痛いなぁ」なんて思っている夜がけっこうあります。小泉さんの痛みと比べれば、きっとまだまだ楽ちんなんだと小泉さんの文章を読めばおもいますけれど。
ほんと、こればかりは、なんとも。
村山哲也