カンボジアの車イス者に話を聞く
2020年に開催予定だった東京オリンピック、コロナ禍で延期され、さて2021年今年には開かれるのか。新しく日本オリンピック委員会の会長に就任した橋本聖子さんは1964(昭和39)年の生まれ、東京でアジア最初のオリンピックが開かれた年だ。そして、ぼくは彼女と同じ年。
半世紀以上前のこの東京オリンピックで、オリンピック開催後に開かれるパラリンピック(障害者スポーツ国際大会)が初めて開催されたことを、ぼくは自分は障害者になった(2014年)後に知った。
その(最初の)東京オリンピック開催のころ、脊椎損傷で歩けなくなるということは、今以上に大変なことだった。褥瘡(床ずれ)で亡くなる脊髄損傷者が当時は少なからずいたということもなにかの本で読んだ。今でも褥瘡は怖い症状だけれど、ベッドや車イスのマットはきっと随分と良くなっているだろうし、褥瘡の予防法や治療法も進んでいるだろう。
褥瘡に限らず、生活の質そのものが、今とは全然違ったはずだ。現在では車イスの性能も良くなっているし、それを手に入れる社会福祉も制度が整い、駅にはエレベーターが設置され、バス停で到着したバスの運転手に手を上げればスロープを使って搭乗できる。このインターネットだって、どれだけ生活の質向上に役立っているか。
半世紀前、家族との生活も厳しく、施設に入らざるを得なかった脊損者は今以上に多かったはずだし、つまり背骨が折れて身体が動かなくなるということは、死んだほうがまし、死んでくれたほうがまし、という思いに一直線ということが多かっただろう。自分がその時代に、この障害を得ていたらどうなっていたのだろうと想像すると、なんか切ない。
途上国の障害者が、半年前の日本の脊損者と同じような状況に置かれているだろうことは、たいした想像力もいらずに思い描ける。2014年に起きた事故の前から、ぼくが暮らしていたカンボジアの首都プノンペンに、再度2019年に戻ったとき、ぼくと同じようなカンボジアの脊損者がどんな生活を送っているのか、知りたいと思った。そして人づてに障害者グループと連絡が取れ、ぼくはプノンペンで暮らす脊損者たちと出会うことができた。そして、週末に彼らを訪ね、ゆっくりと話を聞かせてもらうことを繰り返した。
このブログでも、これまで3人の車イス者を紹介した。ヤシの木から落ちたディーさん。脊損ではないけれど、なんらかの脊髄の病気で歩けなくなったボッパーさん、バイクの三人乗りをしていて対向車にはねられたネアップさん。(以下から、飛べます)
カンボジアで車イス者から話を聞く ディーさんの場合 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
カンボジアで車イス者から話を聞く 2 ボッパーさんの場合 9歳で発病してから、自由の味を知ってしまうまで – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
カンボジアで車イス者から話を聞く 2 ボッパーさんの場合 その2 「新しい人になりました」と書く日まで – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
カンボジアで車イス者から話を聞く 2 ボッパーさんの場合 その3 Falling Loveはあったけど、内緒です。 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
カンボジアで車イス者から話を聞く 3 ネアップさんの場合 – 越境、ひっきりなし (incessant-crossingborder.com)
今回は、4人目のヒェンさんのことを書きます。
大きな怪我をすれば、家族は借金するしかない
1989年、日本では昭和から平成に元号が変わった年、に生まれたヒェンさんに話を聞いたのは2019年の年末に近いとき。当時、彼は30歳になっていた。
プノンペンに生まれたヒェンさんは、小学校は4年生まで行って、その後は遊び中心の生活を送ったという。勉強は好きじゃなかった。ただ、サッカーは上手だった。小4のときには、中学生のチームでプレーしていた。学校に行くといって家を出て、そのままサッカーに行ってしまったこともある。チームが地区の大会で優勝したこともあった。
15歳ころには、もう家やアパートを建てる建設現場で働いていた。親戚のおじさんが手配師をしていて、親戚の多くが彼の元で働いていて、自分も自然とそれに加わるようになった。最初の日当は7000リエル(180円ぐらい)。事故にあったときは、数名のチームのリーダーになっていて、日当は30000リエル(750円ぐらい)になっていた。
事故に遭ったのは仕事を終えてプノンペン郊外の自宅に戻るとき。友人が運転するバイクの後ろに乗っていた。ヒェンさんは仕事帰りだったけれど、友人は知人の結婚式帰りでかなり酔っていた。国道の比較的交通量も多い場所で、道はゆるやかに左にカーブしていた。友人があんまりスピードを出すので、「もうよっとゆっくり走れよ」とヒェンさんはどなった。友人は振り返って「大丈夫だ、心配すんな!」と叫び返した。それがきっかけで、ふたりの乗ったバイクは、その左カーブを曲がりきれずに右側に立つ道端の電柱に突っ込んだ。ヒェンさんは道にふっ飛ばされた。ヘルメットは被っていなかった。
気がついたとき、ヒェンさんは病院のベッドにいた。友人は歯を折っただけだったのに対して、ヒェンさんは大きな外傷はなかったけれど、手も足も動かせなくなっていた。両親と6人の兄弟姉妹、叔父さん夫婦が周りにいて、みんな泣いていた。
最初の病院では動かない手足に措置のしようがなく、ヒェンさんはプノンペン市内の大きな病院に翌日移され、その一週間後にはさらに大きな病院に移った。会話はできたけれど、首を動かすと痛かった。最初に移った病院では痛み止めを処方されただけ。3番めの病院でようやくMRI検査を2度受けた。
カンボジアには保険制度が整っていない。だから、治療費は患者が実費で払わなければならない。MRI検査には150ドル(1万5千円)ほど必要だった。ヒェンさんの日当は750円だ。MRI検査にはヒェンさんの20日分の日当が必要だ。
病院側は「手術が必要だ」と家族に伝えたけれど、一週間待っても手術は行われなかった。点滴だけで栄養を補給されていたヒェンさんは、やがて痩せて浮腫んできた。家族が「いつ手術してくれるんですか?」と医者に問うと、「待てないのか?」と医者側から叱られた。カンボジアの医者は、まだ偉そうな人が少なくない。
ヒェんさんが寝ていたその同室に軍人の怪我人がいた。彼から「早くベトナムに行って治療をうけたほうがいい」と勧められ、両親はお金を工面してくれた。国境までの救急車、さらにその先も、通訳付きの救急車を手配した。もちろん、これも有料だ。両親と一番下の妹(3歳)が一緒だった。
そこで再度検査を受け、一週間後に手術、その3日後にはリハビリ専用の病院に移り、そこで2ヶ月半。頚椎4番と5番の間がずれていたそうだ。
リハビリ病院では、手足を動かす、さらに座る練習を毎日午前と午後に一時間ずつ受けた。手術に10万円ほど、リハビリ病院の2ヶ月半でも10万円ほどの支払いが必要だった。「1年いれば、歩けるかもしれない」とは言われたけれど、土地を担保にお金を借りた両親の蓄えも尽きた。自分で手は少しだけ動かせるようになったところで、プノンペンの自宅に戻った。
ちなみに、ヒェンさんも両親も、パスポートなしで国境を越えたそうだ。
ヒェンさんの両親の家は、カンボジアではよく見る高床式の建物だ。寝たきりとなったヒェンさんのために、床下(日本でいう地上階)にレンガとコンクリートで小部屋を作り、ヒェンさんのベッドもそこに置いた。
その後も、ヒェンさんは褥瘡ができたり、「借金ばかりで」と泣く母親相手に鬱になったり、冴えない日々を送る。褥瘡ができたときは、リハビリテーションセンターで治療を受けた。そこで手動車イスをもらったけれど、自分で漕ぐことはできないし、一度、落ちたこともあって、シャワーを使うときだけに移乗し、ふだんは積極的に使うことはなかった。尿は導尿管を入れっぱなしにして尿袋にため、便はベッドの上で済ませた。シャワーは週に一回。日中はひとりで部屋で過ごし、人と会うのが恥ずかしくて、部屋の入口はカーテンで覆った。事故から2年経ったころ、一度だけ病院からもらった錠剤を口いっぱいに頬張って自殺を試みたこともあった。喉が詰まって、すぐに吐き出してしまったけれど。
事故の際にバイクを運転していた友人とは、事故後一度も会っていない。それほど親しい友人ではなかった。最初に運ばれた病院で、友人の家族から2万円ほどの見舞金をもらったけれど、それっきりだ。裁判なんて、考えたこともない。
自立生活への誘い
事故から4年たった2017年の中ごろ(6月か7月)、人づてにヒェンさんのことを知ったプノンペンで障害者の自立促進の取り組みをしているグループが、ヒェンさんにコンタクトしてきた。そして2017年の12月、ヒェンさんはそのグループから電動車イスをもらった。手動車イスは使いにくかったけれど、電動車イスをもらったのはとても嬉しかった。その10日後、父親が職場での事故で突然亡くなった(保障など、特に出ない)。さらにその1週間後に、障害者グループから「家族から離れて自立生活をしてみないか」という誘いをヒェンさんは受ける。
父親を亡くした直後、悲しみに暮れていた母親は大反対した。それでも、一生懸命に母親を説得して、ヒェンさんはその申し出を受けた。
グループは、ちょうど日本からの支援を受けて、実際に重度の障害がある人が家族を離れ自立する実例を作ることを模索しているときだった。以前、紹介したネアップさんがまず一人暮らしを始めていた。予算はもうひとり分あった。それでまだ若いヒェンさんに声がかかったんだ。
ヒェンさんは、グループの事務所の「訓練室」で一人暮らしの練習を始めた。練習するのはヒェンさんだけではない。ヒェンさんの生活を支援する介護者の訓練も同時に行われた。24時間導尿しているヒェンさんには、最初ほぼ24時間の介護者がついた(2年後、介護は朝昼晩、それぞれに1時間半ずつ、合計4時間半になっている)。半月の訓練期間を過ごした後、事務所近くのアパートのネアップさんが暮らす隣の部屋で、ヒェンさんの自立生活が始まった。
一人暮らしを始めて良かったのは、まず自分の食べたいものを食べられることだった。以前は、母親の作るメニューに文句をつけると、そこでいつも喧嘩になった。そんなときは、いつも自分が我慢するしかないた。けれど、一人暮らしになって、介護者に食べたいものをリクエストできるようになった。さらに、ベッドから電動車イスに移りたいときに移れる。
つまり、生活の決定権は自分にあるってことだ。これは自立支援グループが実施した研修で勉強した(そのときの教官が、やはり以前紹介したボッパーさん。ボッパーさんは、障害者の自己決定権について、日本での研修プログラムで学んでいる)。
ぼくが話を聞いたとき、ヒェンさんの自立生活はちょうど丸2年になろうとしていた。今のところ、日本からの支援を受けることで、介護者やアパートへの支払いが可能になっている。もし支援が止まれば、「母親のいる家に帰るしかない」。ずっと支援が続いてくれるといいと、ヒェンさんは思っている。
ヒェンさんの今
現在のヒェンさんは、自立支援グループで平日は毎日働いている。
一度、カンボジアで一番歴史のあるプノンペン大学で、学生相手に自立支援グループが講義するのを見学させてもらったことがある。講師のひとりがヒェンさんだった。彼の毎日の生活ぶりを紹介するビデオを学生に見せた後、ヒェンさんがマイクを握った。彼の腕と指には障害があるので、マイクを掌と指でガッチリと握ることはできない。サポートが彼の指にうまくマイクが収まる場所を探して持たせてくれる。そこで彼は、障害者の自己決定がどれだけ大切かを学生たちに話した。「もし、あなたが事故にあって障害を持っても、どうぞ諦めないで。あなたの身近にそんな人がいたら、自立生活が可能だと伝えて下さい」。
他の日、自立支援グループがプノンペン郊外のコミューン(最小の自治体単位)の役場で、障害者への支援を要求する会議も見学させてもらった。役所の人との交渉時にはほとんど口を開かなかったヒェンさんは、けれどそのコミューンで暮らしているやはり脊損の障害者に対しては励ましの言葉をたくさん語った。「服は毎日着替えたほうがいいですよ。恥ずかしがらないで、外にでたほうがいいですよ。誰かがあなたを見たら、にっこり微笑んだらいい」。
ヒェンさんには肩から二の腕にかけて入れ墨がある。カンボジアの男性にとって、入れ墨はそれほど奇異なものではない。軍人や警察官は、自身の安全のためのお守りとして入れ墨を入れる人も多い。ヒェンさんが入れ墨を入れたのは事故の2年前、22歳ころ。「かっこいいと思ったから」と屈託がない。
ヒェンさんには、実は7歳(2019年当時)になる息子がいる。事故前に別れた妻との間に生まれた子どもだ。今でもお正月やお盆には会う。
最後に、ぼくの大きな関心事項の排便について。ヒェンさんの排便は月曜日と金曜日の週に2回、座薬を使って、ベッドの上で横になってしている。指を肛門に入れる摘便ではなく、お腹を腕で押して、押し出すのだそう。「パイナップル、熟れたマンゴー、オクラ、空芯菜を食べると下痢になるから、食べないようにしている」、「バナナやパパイヤを食べると、うまく出る」のだそうだ。。それでも「事務所にいるときに、この2年で2回ほどウンコが出てしまったことがある」し、「ウンコが漏れてしまったときには、汚れたズボンやタオルを捨ててしまう」こともあるそう。食費は1日200円、支援グループから支給されている。200円だと、プノンペンでもレストランでの外食はできない額だ。だから、事務所の往復の際に野菜や肉を買って、介護者に料理してもらう。
2020年3月に東京にちらっと来ていたぼくがプノンペンに帰れなくなっていたとき、2020年中ごろ、ヒェンさんが褥瘡の治療で入院したという投稿がフェースブックで廻ってきた。幸い、数週間後には退院した。つい昨日には、仕事仲間の結婚式に事務所のみんなで出席している様子の写真が投稿されていた。プノンペンのヒェンさんは元気そうだ。さて、今月(3月)末にプノンペンに戻る予定のぼくは、彼らにいいおみやげはなんだろうと、今考え始めている。


















コメント、いただけたらとても嬉しいです