途上国での教育の応援、ぼくのこれまでの多くの仕事は日本のODA(政府間援助)の末端でのものだった。けれども、一度、ベルギーのODAで働いたことがある。今日は、そのことを書いてみます。
ベルギーのODAとのご縁
ベルギーというのはオランダとフランスに隣接する、ヨーロッパ西北部の小国で、サッカーのワールドカップにときどき出場するのと、首都ブリュッセルにEU(ヨーロッパ連合)の本部があることでぼくたちの前に顔を出すぐらい。あと、ビール好きのぼくにはいつか訪ねてみたい聖地でもある。ヒューガルデンとか、デリリィウム、レフ、みんな美味しいですよねぇ。
ぼくが関わっていたカンボジアでのODA理数科改善プロジェクトが2005年3月に終了したとき、次のプロジェクトをどうするかで関係者で意見諤々やりあった。そこで、日本のODA実施機関の出した方針にどうしても納得できなかったことがぼくにはあり、ODAがやらないなら、自分でやる!というような事態となった。それでぼくはプロジェクト終了後、再度プノンペンに戻ることにした。しばらく貯金でやりくりするつもりだった。
理数科改善プロジェクトでは、高校教員養成校の理科と数学のスタッフの能力向上が主たる仕事だった。そのために、彼ら/彼女らをトレーナーにして、高校現職教員や、小中学校教員養成校のやはり理科と数学のスタッフへの研修プログラムを実施した。「教える」行為が、最も効果的な学びにつながるというのは、よく言われることだ。主たるターゲットである高校教員養成校のスタッフの学びを効果的に行いながら、現職教員や、他の養成校教員の再勉強の機会も作るという、欲張りな取り組みだった。でも、たしかにその効果はあった。
その「他の教員養成校」のひとつ、コンポンチャムの中学校教員養成校でベルギーの小さな支援プログラムが動いていた。彼らがなんでコンポンチャムにターゲットを絞ったのかは、何かわけがあったはずだけれど、忘れてしまった。とにかく地味なプログラムだった。その支援対象は、やはり理科で、コンポチャム周辺の中学校への支援。ベルギーから派遣されてきたのは、30代の女性だった。派遣前にベルギーの中学校で理科を教えていたと言っていた。
理科教員の経験だけで、ぽんと途上国の理科支援をやってと送り込まれて、彼女はかなり戸惑っていた。上記の研修を実施する際に、彼女と知り合い、少し相談に乗った。「中学校に教材を配りたい」と計画していたので、教材を購入する場所や、配布の際の注意点などを伝えた。実験資機材を使ったことのない人たちに、教材だけ配布してもなかなか使ってもらえないことも(実際、定規を使えない、秤の目盛りが読めない、グラフが書けない、なんてことは日常茶飯事だったから…)。
やがてコンポンチャムで、彼女は少しずつ小さなプログラムを始めた。ODAと言いながら、本国からのサポートもあまりないようで、苦労しているようだった。
そして、ぼくの関わっていたプロジェクトが終わって、ぼくが小さな意地を通してプノンペンに舞い戻ったころ。その彼女が、本国の家族の都合で任期短縮して帰国することになった。けれど、彼女の後任をすぐに派遣することができないらしく、彼女から「ムラヤマ、ちょっと手伝ってよ」という声がかかった。当時、そのベルギーODAの事務所はカンボジアには無く、ベトナムの首都ハノイから担当職員がプノンペンにやってきて、ぼくに会いたいと言ってきたんだ。
小さいとは言っても政府間援助だ。ベルギー人でないぼくに何ができるんだろう?そもそも、外国人であるぼくが関わることができるんだろうか?そんなことを思いながら、担当職員と会食することになった。
で、結論を書けば、ぼくはいわゆる「現地雇いスタッフ」としてコンポンチャムのプログラムの臨時スタッフとして雇われることになった。現地雇い、ということは、航空券やパスポートの費用は出ない。住居費も出ない。つまり、カンボジアの現地スタッフ扱いってことだ。それでも現地雇いとしては破格の月1000ドルを支給してくれた。
ふーん、そんなやり方があるんだ。会食しながら、どんどん話を進めていくベルギースタッフの小気味よさに、ぼくはちょっと感動した。日本のODAでは、こんな話はまずないんじゃないだろうか。
プノンペン暮らしで数年過ごしてきたぼくは、コンポンチャムという地方での活動にも興味があった。首都から見てきたカンボジアを、今度は地方から見てみたいと思ったんだ。
ぼくがプノンペンに残った理由となった地球科学教官への支援は、土日に開催することにした。つまり、月曜日の朝にプノンペンを出てコンポンチャムに向かい、金曜日の夕方にコンポンチャムを出てプノンペンに戻る。そのことは、そのベルギー職員にも了解してもらった。任期は半年(後任スタッフの派遣が遅れ、結局10ヶ月ほどの勤務となった)。1時間ちょっとの会食が終わったときには、ぼくたちは笑顔で握手していたんだ。ふむふむ、なんか面白いことになったぞ。
熱い夜、シャワーを浴びて濡れたままベッドへ
コンポンチャムはメコン川沿いにたたずむ、県庁所在地だ。首都プノンペンから見て北側に位置する。道路での距離は120キロメートル。バスで3時間強ぐらいだ。以前は、プノンペンからコンポンチャムへメコン川を使ってボートバスも運行していたけれど、道が整備され、そのときはもうボートバスは運行を止めていた。
コンポンチャムには、日本のODAでメコン川本流をわたる全長1500メートルの大きな橋が2001年に完成した。キズナ(絆)橋という名だ。カンボジア語では、スピエンキズナー。
フランス保護領時代からのメコン川港町で、町の中心部にはフランスがデザインした端正な(そして威厳のある?)役所街が整備されている。町外れの大きな原っぱは、保護領時代の競馬場だ。
その競馬場に面して、小学校教員養成校と中学校教員養成校が並んでいる。
日本のODAプロジェクトで働いていいたときに、研修で何回かコンポンチャムには出張していた。そのときは、メコン川に面した大きなホテル(といっても、かなり古く、日本のホテルを想像されると、かなりギャップが大きい)のエアコン付きの部屋に泊まった。一泊高くても30ドルだったか。でも、1ヶ月借りたら、それだけで900ドルになる。1000ドルの給与じゃ、とても泊まれない。
そこで、町中の小さな宿屋で、一泊10ドルのエアコンなしの部屋を、1ヶ月通しで借りるということで割引をお願いして、確か月150ドルにしてもらった。あとは、バスの往復代は大した額じゃない。
けれど、暮らし始めるといろいろとあった。
まず、暑い!酷暑の時期は、とても暑くて眠れない。夜中にシャワーを頭から浴びて(もちろん温水など出ない)、身体も髪も濡れたままそのままベッドに横たわって、ようやくウトウトできた。
あとバス。特に金曜日の最終バスが、客数が少ないとよくキャンセルになった。土曜日にはプノンペンで用がある。予定通りに行かないのが途上国の性だけれど、うーん。
で、やがてバスではなく、自分の車を自分で運転して往復することが多くなった。日本のODAでは自分で運転するのは禁止(運転手を雇わなければならない)だけれど、ベルギーはそんな野暮なことは言わないのだ。けれど、ガソリン代、かかりますー!
プノンペンに比べると、コンポンチャムは小さい。自転車でぐるっと走り回れば、20分ぐらいあれば可能だ。町の南側のメコン川沿いには、イスラム教徒の村があることもわかった。キズナ橋の下流にある中洲には、乾季になってメコンの水量が下がると、竹で編んだ竹橋がかかる。独特の光景だ。最近、この中州に橋がかかり、竹橋が姿を消したらしい。うーむ、これが開発か。
プノンペンに比べると、コンポンチャムの夜は暗い。川沿いを散歩していると、街角に人だかりがある。野次馬根性丸出しで覗いてみると、漁業事務所で、中にメコンオオナマズがドーンと転がっていた。全長1.5メートルぐらいはある。最近ではこんな大物はめったに上がらないらしい。ふーむ、それも開発かぁ。
雨季の終わり、プノンペンの水まつりの前、コンポンチャムでもボートレースが開催された。夕方にぼくも繰り出してみると、すでにレースは終わっていた。人波に流されるままにキズナ橋を渡る。すると、川上から数百の灯篭流しが流れてきた。暗い川面を灯篭流しがキズナ橋の下をくぐっていく。その見物船も川面にでてゆったりと走っている。とても印象的な光景だった。開発が進んだ今も続いているだろうか。
タランチュラ
プノンペンとコンポンチャムの中間点にスクンという町がある。そのまま進めばアンコール遺跡群のあるシュムリアップにつながる国道6号線から別れて、コンポンチャムを通ってラオス国境につながる国道7号線が始まる町だ。
このスクンの名物がタランチュラ、ぼくの握りこぶしよりも少し小さいぐらいの大きさはある蜘蛛だ。それを煮炒めしたものを道沿いで売っている。カンボジアの人でも嫌う人はいるけれど、口に運べば鶏肉のような味と言えないこともない。「あれは、ポルポト時代に食べ物が無くて食べ始めたんだ」という人もいる。けれど、タイの東北部からカンボジア北部にかけての地区は、イナゴやコオロギ、ゲンゴロウ、カイコの蛹、さらにはタガメまで、昆虫食が盛んな地域だ。タランチュラも以前から食べられていだんじゃないかしらと想像するけれど、真相を確認したことはない。
で、そのタランチュラ、飼ってみようと思った。売り子のお姉さんに「生きてるのはいないの?」と訊ねると、まかしておけ!という感じで走り出し、しばらく待っていると大きな米袋をもってくるもちろん、中には米ではなくて生きているタランチュラが入っている。一匹ちょうだいとお願いすると、たった一匹!!と彼女はがっかり。でも売ってくれた。「餌は何を食べるの?」と聞いてみると、驚くことに彼女が言うには「なんにも食べないよ!」。水だけ霧吹きであげている、という。
なにも食べないはずがないじゃない!おそらく、袋の中ではときどき共喰いが起こっているんじゃないのかな。

コンポンチャムのプロジェクト事務所で、小さな水槽(水はいれない)にそのタランチュラを放した。うーん、精巧な玩具みたいだ。かっこいい!養成校は林の中にあり、草むらも多い。捕虫網を持って、コブラには気をつけて、草むらでバッタを追った。そのバッタを、水槽に放してみる。すると、あっという間にタランチュラがバッタに襲いかかって捕獲した。すごい、目にも留まらぬ猛ダッシュだ。
あるとき、タランチュラの体長の倍ほどもあるトカゲを入れてみたこともある。すると、やはりタランチュラがガシッとトカゲを押さえつけた。翌日、数片の小さな骨が水槽の底に残されていた。なるほど、おそらく生態系の中で、タランチュラの成体は食物連鎖のトップに位置しているんじゃないだろうか?バッタ、トカゲ、カエルなどを捕食しているのだろう。羽化したての小鳥も餌になりそうだ。もちろん、生物の教員にも飼育を勧めてみたのだけれど、気味悪がってチャレンジしてくれた人はいなかったなぁ。
つながるご縁
10ヶ月たって、ようやく後任がやってきて、ぼくのアルバイトは終わった。その後、このベルギーのプロジェクトは再編成されて、全国の小中学校教員養成校を対象とした大きなプロジェクトに成長した。やがてぼくも日本のODA第2次理数科改善プロジェクトで働くようになり、そのベルギープロジェクトとはいい連携を保つことができた。コンポンチャムでのぼくの《実績》が多少は役に立ったと思う。
さらに、やがてぼくがルワンダで仕事をしていたときも、このベルギーODAとはご縁があった。ぼくが事故にあった後のことだけれど、プノンペン時代に知り合った人が、ルワンダ赴任となった。そこでも、日本のODAプロジェクトとベルギーのプロジェクトでの連携が円滑に進んだと聞いている。
うん、やっぱりどこでも人の縁っていうのは、大事なんだなぁ。ベルギ-、いつの日か訪ねてみたい場所のひとつだ。
追記*ベルギーの人たちとプノンペンでよく交流していたとき、2010年南アフリカでサッカーのワールドカップが開かれた。そこでオランダが決勝に勝ち残った。決勝はスペインとだ。
彼らにどちらを応援するのかと訊ねた。彼らの母語は、オランダ語にも近い。きっと隣国としてオランダを応援するのかとぼくは思っていた。すると、「オランダ!?ファック!! もちろんスペインを応援するよ!」
あぁ、ご近所同志は、いつも仲が悪いんだなぁ。(決勝は、スペインが勝った。ちなみに、この事例で何かを判断するには標本数がとても少ないので、あくまでこれはお茶飲み話として読んでください)。

















バンブーブリッジ、懐かしいですね! 車が通るたびに、「壊れるんじゃないか?」と心配して渡ったのを思い出します。今は主に観光用の徒歩だけの橋になっています。この橋の向こうのカッコンがソティアの母の実家のあったところ。新しい橋もできたので、墓所へ訪問しようと思っています。
間々田和彦様
いつもありがとうございます!
そうですか、バンブーブリッジ、その後も乾季には作られているのですね。徒歩で渡るときに料金をとったりしているのでしょうかね。
地元の人たち(特に作り手の人たち)にとっても、あの橋は大事なものだったようですから、存続できたのはよかったんじゃないかなぁ。
村山哲也
料金は取られました! 以前に比べてかなり簡易ですね。人が通っただけでも、以前の車が通るときの揺れがありました。